伊川津貝塚 有髯土偶 31:曽池と周囲の丘陵
愛知県名古屋市南区呼続(よびつぎ)の稲荷山(いなりさん) 長楽寺の渓谷を抜けると、曽池脇の呼続公園に抜けました。
呼続公園の舗装路に出ると、すぐ北側に長楽寺の地下を抜けて来た水路はグレーチング(鉄格子蓋)で蓋をした幅20cmほどの水溝(上記地図に表記)となって舗装された通路を横切り、曽池の鉄柵の向こう側に消えていた。
上記写真の明るい部分の下方部分は曽池の水面だ。
水溝の消えている鉄柵の場所から曽池を見下ろすと、以下の写真の自然石を組んだ部分に水路は向かっているようだ。
ここから時計回りに曽池の南側に回り込むと、水面のほとんどが睡蓮の葉で覆われていた。
池の中央部では噴水が水を放射状に吹き出していた。池の縁には木造の丸太に見せかけたコンクリートの柵が巡らされている。
水溝の水が曽池に落ちている場所を観に行きたかったが、上記写真右下のような鉄柵が設けてあって立ち入れないようになっていた。
なので、望遠で水溝の水が落ちているあたりを撮影したのが以下の写真だ。
水溝の水が落ちているあたりの曽池内の水面には石が立っていた。
曽池の水面にはちょうど開花期を迎えた睡蓮が花を開いていた。
上記地図内のⒶ〜Ⓓは曽池遺跡内の丘陵部分だが、曽池の南西脇に位置するⒶの部分は円墳だったのではないかと思われる丘陵部で、登る階段が設けられており、頂上から曽池全体を俯瞰することができそうなので、登ってみることにした。
しかし登ってみると、この季節、呼続公園内は緑の葉がもっとも濃い時期なので、池の周囲に巡らされた樹木に遮られて、ほとんど水面は見ることができなかった。
これは、かつて曽池が南の方に広がっていて、その部分が野球グランドになっているのだが、そちらの方向も同じように、見通しは良くなっかった。
それで、丘陵を下り、曽池の南側から野球グランドを撮影したのが以下の写真だ。
池が埋め立てられたのは昭和期だが、今でも水捌けは良くないようだ。
前日の雨がまだ残っている。
曽池の北西部に位置する、呼続公園内でもっとも標高の高い丘陵Ⓑにも登ってみることにした。
この丘陵も円墳にしかみえないくらい、平地から丘陵が突然盛り上がっている。
登ってみると、曽池の北西部は池を囲む樹木が薄く、水面は見下ろすことができた。
曽池の北部の水面には睡蓮はほとんど見られなかった。
丘陵部Ⓑから時計回りに丘陵部Ⓒに回った。
丘陵部Ⓒは稲荷山(いなりさん) 長楽寺境内西端のすぐ外側に辺り、中木を主にした森が広がっていた。
さらに長楽寺渓谷の呼続公園側からの入口近くにある、渓谷から富部神社(とべじんじゃ)社地に登って行くことのできる、南東側に回ると、その丘陵には富部神社の社叢が広がっていた。
曽池遺跡に関係するものは長楽寺渓谷の入口脇の小さな掲示板のみだった。
曽池遺跡の出土物は下記図版の古墳時代の器が主で、縄文期の出土物に関しての図版は見当たらなかった。
曽池遺跡からの出土物は天林山 笠覆寺(りゅうふくじ:笠寺観音)の西160m以内に位置する名古屋市見晴台(みはらしだい)考古資料館に収蔵されているので、一部は展示されている可能性はある。
(この項終り)
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曽池が海とどれほど近かったのかは上記地図内の「大磯通(おおいそどおり)」を見ていただくと推測できます。この大磯通の周辺に呼読の大磯が広がっていたわけです。大磯通の西側には塩竈が並んでいたことに由来する千竈通(ちかまどおり)も存在しますが、この通りまでは伊勢湾台風の時には水が来ており、それだけに南海トラフで大津波が起きた場合にはなかなか怖い地域ではあるのです。逆に曽池の東側を通っている旧東海道は水害で重要な流通路が遮断されないような高所にちゃんと街道が通されています。それでも東日本大震災レベルの津波では洗われる可能性は高い。それなのにこのあたりが濃尾平野でもっとも高い場所なのです。