麻生田町大橋遺跡 土偶A 142:不明の2社と久しぶりの樋門
豊橋市白河町の手棒橋から、下流100m以内の同じ白河町の無名橋1(仮名称)に移動しました。
白河町の無名橋1上から牟呂用水の上流側を眺望すると、手棒橋脇では水面と橋の距離が広がっていた牟呂用水は再び橋面と水面が近く戻り、右岸(下記写真左手)には2段になった高水敷が上流から延びていた。
両岸には変わらず、用水路に沿って道路が走り、護岸壁に沿って水色の金属ネット塀が巡らされている。
反対側の下流側を見ると、10mあまり先には暗渠の入り口が口を開けていた。
ここには橋長7m、橋幅30mほどの花田橋を中心に分岐して斜めに牟呂用水に架かった橋との隙間を覆って1つにまとめたことによって出来た、全長90mあまりの暗渠が通っている広大な交差点が存在していた。
左岸(上記写真左手)の幅15cmくらいしかない高水敷は暗渠の数メートル手前で終了しているが、右岸の白くて幅の広い高水敷だけは暗渠の暗闇に向かって延びている。
無名橋1の北側の道路の向かい側には赤錆の出たトタン葺神明造の社がコンクリートブロック塀で囲われた三角地内に祀られていた。
石灯籠も一基残っている。
ここは白河町だ。
この規模の社は暗渠の出口側にも同じく南向きに祀られていて、対になって祀られている可能性があるが、情報が無く、祭神は不明だ。
社の形式からすると神明社の可能性が高いが、水路脇であることからすると、JRの東側の牟呂用水脇に祀られていた社と同じく、弁財天、あるいは龍神・水神を祀った社である可能性も考えられる。
榊立ての榊も新しく、ちゃんと祀られている。
暗渠の出口側に移動して下流側を見下ろすと、防御柵を持った水色にペイントされた水管が架かっており、そのすぐ先の右岸((下記写真右手)には暗渠入り口手前で消滅していた上の段の幅の狭い高水敷が復活していた。
下の段の白っぽく幅の広い高水敷は、変わらず、暗渠下をくぐり抜けて来ており、そのまま下流に向かって延びている。
暗渠出口側の立花町の社は三角地の根元の台形の社地に伝統的な玉垣が巡らされ、社内には石灯籠が無いものの、複数の低木が植えられていた。
銅板葺流造の屋根からすると、暗渠入り口脇の白河町の社と祭神は異なる可能性が高い。
花田橋の暗渠の出口の下流230mあまりに架かる大塚橋に移動。
上流側を見下ろすと、橋のすぐ脇にクロームメッキされた水管が渡されていた。
そして、牟呂用水内の左右両護岸壁は土手になっており、灌木が茂って水面に覆い被さっていた。
両岸がこんな状況になっているのは牟呂松原幹線水路では初めてのことだ。
何故か右岸の花田二番町側の堤防だけがずっと、この状況になっている。
一方、下流側を見下ろすと、20mほど下流に無名橋2(仮名)が架かっており、左岸は土手がコンクリート護岸に整備され、植物が生い茂っている土手は花田二番町側である右岸だけに変化していた。
ここから護岸壁上の左岸には波模様の入った、水色にペイントされた鉄格子柵に変わった。
そんな状況は、その無名橋2上に移って下流を見通すと、右岸(下記写真右手)はコンクリート護岸に変わった。
100mあまり下流には下大塚橋が見えている。
下大塚橋に移動して橋上から上流側を見ると、右岸(下記写真左手)の上の段の高水敷の幅が50cmほどに広がっていることに気づいた。
眼下にはクロームメッキされた調節弁を持つ水色の水管が通っていた。
このあたりは橋ごとに水管が通っている。
下大塚橋上から下流側を見ると、橋のすぐ脇に右岸に通じる樋門が存在し、その丸いハンドルが眼下に位置していた。
もう牟呂用水の用水路としての役割は終え、樋門は現れないのかと思っていた。
そればかりではない、右岸の高水敷内を流れる水路にも水門のための丸いハンドルが設けられている。
あくまでも牟呂用水と、高水敷内の水路は別けられているようだ。
牟呂用水は下大塚橋のすぐ下流で西南西にカーブしていた。
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下大塚橋を渡っている道路は牟呂用水の北90m以内に位置する羽田上神社に通じていました。