麻生田町大橋遺跡 土偶A 184:レイライン上の弁財天
岡崎市菅生町(すごうちょう)の吹矢橋から、一旦、すぐ北側を通っている国道1号線に出て、乙川(おとがわ)の右岸に沿った道に入ると、220m以内の右手に白い幟が林立している前を通りかかりました。
道路沿いには『地蔵尊 高岩弁財天』の大きな案内版が出ていた。
「高岩弁財天」は以下のように紹介されていた。
案内版の向かい側を流れる乙川に「高岩」と呼ばれた岩があり、その岩の上に奉られていた弁財天が陸側に遷座したのだ。
案内板の裏面に並んだ幟には朱や墨で「正一位 秋葉神社」、「高岩延命地蔵尊」とあるが、「弁財天」は見当たらない。
案内版の左脇から参道が奥に延びているので、その入口脇に愛車を駐めた。
道路に面した参道入口には左手に「正一位 秋葉神社」の朱の幟。
右手の電柱の脇に「高岩 弁財天 地蔵尊」と刻まれた仏号標の板碑が建てられていた。
参道には全面に細かな砂利が敷き詰められ、左手の1階がシャッター付の駐車場になっている建物と右手が背の高い生垣になっている狭間が参道として奥に延びており、10mあまり先に瓦葺きの建物が見えている。
その建物に向かって参道に入っていくと、左手の建物の裏面は開けており、2棟の旧い建物がビルの谷間に並んでいた。
右側の参道正面の建物は瓦葺切妻造棟入の堂で、正面の格子戸と屋根下の破風板(はふいた)は素木だが、ほかの木部は赤や白で彩色されており、弁財天に関係する建物であることが推測された。
参拝して格子窓から中を見ると、天井から「高岩地蔵尊」、「高岩弁財天」の小田原提灯が下がっていた。
階段状になっている奥の棚を見ると、中央に極彩色の陶製弁財天像が奉られ、向かって右隣には「正一位 秋葉神社」のお札。
左隣のお札は不明だ。
そして、赤紫色の神前幕には秋葉神社の楓紋が白抜きされている。
地蔵尊の提灯はあるものの、この堂に地蔵尊は奉られていないので、弁天堂ということなのだろう。
もう一つの弁天堂左側の瓦葺宝形造の建物が地蔵堂で、弁天堂と地蔵堂の間にある小さな堂も地蔵堂のようだ。
表道路に戻って道路を渡り、乙川を見下ろすと、川幅は120m近くあり、水面幅は70m以内だが、案内書にあるように高岩は除去され、水面上に出ている岩は1つも存在していない。
そして、水面は緩やかな波が微かに立っているのみだ。
高岩に関してはさらに詳しいことが刻まれた『髙岩の碑』が参道に面して設置されていた。
現在のこの部分の乙川は両岸ともコンクリートで護岸され、高水敷には通路が設けられ、左岸(上記写真向こう岸)の土手は緑の草が区画されて繁殖するようにコンクリートで枠取りされているようだ。
弁天堂と同じ敷地の西側には2種類の「弘法大師」の幟がはためいていた。
GoogleMapには「高岩弁財天・地蔵尊」が大きく表示されているが、ここは三如山 蜜峰寺(みつぼうじ)という高野山真言宗の寺院であることが解ってきた。
蜜峰寺のメインの建物が瓦葺入母屋造の弘法堂であることも解ってきた。
弘法堂の向拝の柱には「本尊 さば大師」の看板が掛かっていた。
「さば(鯖)大師」に関しては以下のような伝承がある。
伝承内に登場する「旅の僧」とは江戸時代以前には行基とされていたが、この伝承を空海と関係のある高野聖(こうやひじり)や勧進聖(かんじんひじり)が日本各地に広めたことから、明治時代以後には、空海とするように変化した。
空海は先達である行基を追いかけるように行基の修行した山で修行し、行基の建立した寺院を再興して歩いた関係にある。
そして、行基は役行者が修行した山に入って修行し、その山に寺院を創建して歩いた関係にある。
弘法堂の前の広場の西側には広場に向けて瓦葺切妻造吹きっぱなしの観音堂や仏像、小さな堂が広場の方を向けて並べられていた。
観音堂の柱には「十一面観音」の表札が掛かっていた。
堂内には複数の石仏が奉られていたが、興味を惹かれたのは堂内の軒下に掛かっていた天狗の面だった。
天狗の頭部には修験者の被る頭襟(ときん)が見られる。
頭襟は本来黒色なのだが、面を彩色し直す際に一緒に赤く塗ってしまったようだ。
三河には修験道との関わりを示す役行者像があちこちに奉られ、役行者が祈り出した蔵王権現と関わりのある神社や山名も存在する。
真言宗寺院と天皇直属の組織だった修験道が関わりを持つようになったのは明治政府によって修験道と皇室の関係が断ち切られて以降のことだった。
天皇との関係が喪失して、存在意義を失った修験者は農業従事者や薬草売り、易者など、何にでも身を移したが、祭祀にこだわる者には密教寺院が受け皿となって、現在まで活動は続けられている。
一般に修験者は「山伏」と認識されている。
弘法堂周囲には密教寺院らしい花が生けられたり、水棲植物の鉢が置かれていた。
下記はそのうちの一つ、クレマチスだ。
クレマチスはキンポウゲ科 センニンソウ属の植物だが、「センニンソウ(仙人草)」の名称由来は、上記写真では花が大きくてほとんど目に付かないが、花の背後に果実から伸びた銀白色の長毛が密生する様が、仙人の髭を連想させることに由来すると言われている。
水生植物は複数の水鉢で並べられていたが、その中に「マンカラ・ウボン」という素木に墨書きのネーム・プレートが立てられた鉢があった。
葉がほとんど円形をしているのが特徴だが、睡蓮(スイレン)の一種で、花は咲いてみないと、色は不明だ。
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乙川を辿る動機になったのは、ともに土偶の出土している麻生田大橋遺跡と御用地遺跡を結ぶレイライン上に乙川の縁に祀られた乙川龍神めのうづ社が存在していることに気づいたからですが、同じように現在、乙川縁に奉られていた高岩弁財天の存在には、通りかかるまで気づいていませんでした。