麻生田町大橋遺跡 土偶A 130:方墳と稲荷神の山
豊橋市波ノ上町に位置する生土橋(なまどばし)を左岸(南岸)に渡り、急な坂道を登って、住宅街の中を抜けて稲荷山古墳1号墳に向かいました。
生土橋から路地を辿って西南西310mあまりに位置する稲荷山古墳1号墳に向かうと、舗装された路地が尽きた場所の先に地面が波打っている荒地があり、樹木が覆っていた。
その荒地の入り口には教育委員会の製作した案内板『稲荷山1号墳とその周辺』が掲示されていた。
実はこの案内板の右脇の塀の無い住宅内には路地沿いに犬小屋があって、小生が愛車でこの路地に入ってきた時から吠え出した大型犬がいた。
路地の再奥に愛車を駐めたので、必然的に犬小屋の真ん前に愛車を駐めたことになり、忠犬としては防犯のために吠えるのは当然なのだが、大きな哭き声で吠えられながら、案内板を読んだので、落ち着いて内容を把握することが出来なかったが、周辺にも古墳が存在するらしいことだけは呑み込めた。
肝心の稲荷山1号墳はどこにあるのか探そうと、上記写真の森に沿って波打つ荒地に入って行こうとすると、パンツを1本ダメにされたコセンダングサが花を咲かせていた。
この時履いていたWORKMAN製の防暖パンツはコセンダングサにダメにされたパンツに代えて購入したばかりのパンツだったので、おっと、とコセンダングサを避ける経路を探しながら、やむなく森の中に入ることになった。
その間も犬は吠え続けているので、落ち着かないことおびただしい。
森の入り口の枝の下から開けている南側を見ると、下記写真のように畑地が広がっていた。
畑地の右手の森は半年以上前にやって来ている牛川稲荷社の杜であることが、後で判った。
上記写真の眼下の雑草がコセンダングサだ。
稲荷山1号墳を探して森の中を通り抜けて西側に下ると「○○大神」と刻まれた石碑が立てられていた。
この石碑も後で牛川稲荷社のものであることが判った。
どうも、今通り抜けて来た森の中の丘が稲荷山1号墳らしかった。
この丘の麓を時計回りに回った。
上記写真は北西の麓から墳上を見上げたところ。
この左手は断崖になっていて、ここより遠くからは撮影できない。
さらに北側に回り込んで墳上を撮影したのが下記写真。
撮影する自分の背後は断崖だ。
さらに東側の犬の吠えている住宅の脇から墳上に向かって撮影したのが下記写真。
今、時計回りに回って来た部分が稲荷山1号墳の周囲を取り巻いている溝部分だと思われる。
方墳の形は完全に失われているが、だからと言って円墳状になっているわけでも無く、断崖に沿って小型の尾根の延びる丘陵だった。
とにかく、吠え続ける犬から遠ざかろうと、案内板に説明のあった稲荷山2号墳と浪ノ上1号墳の場所を観るために生土橋に戻ることにした。
途中、断崖沿いの街角に稲荷山2号墳跡らしき空き地があった。
その空き地は住宅用地として更地になっているようなのだが、その段階で古墳であることが発覚したのか、空き地のまま路地に面した部分は厳重に封鎖されていた。
生土橋に戻って、牟呂用水の右岸にあるという浪ノ上1号墳に向かおうとしたのだが、案内板にある、稲荷山1号墳の東側約200mの場所は、やはり封鎖され立ち入りできない場所にあるようだった。
半年以上前にこの地にやって来た時は、生土橋から稲荷山1号墳のある丘陵上に戻り、丘陵を超える道で生土橋の下流430mあまりにある、牟呂用水に架かった橋に向かった。
住宅街の中の路地を走っていると、右手に登っていくアスファルト舗装された、まだ新しい分岐道があって、その麓に「憲法九条の精神が地球を守る」というGHQが日本に押し付けた憲法を肯定する、お花畑な標語が掲示されていた。
坂道の左手の森はよく手入れされており、種々の美しい花が咲き乱れ、“お花畑”は実践されていた。
標語の隣には「浪ノ上 稲荷山」と刻まれた石碑が建てられていた。
ということは、リスだと思った像は狐だったようだ。
地図を見ると、この坂の上に牛川稲荷社と稲荷山1号墳が存在するようだ。
坂道を登っていくと、森の中に石鳥居が見えたので、その参道の外側である坂道の頂上に愛車を駐めた。
石鳥居のあるコンクリート舗装された参道を上がっていくと、参道の両側は社叢に包まれ、好い雰囲気だった。
石鳥居をくぐり抜け、真っ直ぐな山道を20mあまり進むと、未舗装の境内に入り、常夜灯の前に出た。
常夜灯の間からは幅1.2mほどのコンクリートでたたかれた参道が森の奥に向かっていた。
(この項、続く)
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「稲荷山」とありますが、この名称は山名なのか、山号なのでしょうか。憲法九条と地球守護を結びつけた標語から、この稲荷社は密教系の鎮守社ではないかと感じました。