今朝平遺跡 縄文のビーナス 14:石積・ポンスケ
豊田市足助町(あすけちょう)飯盛山(いいもりやま)の西の麓を流れる巴川に架かった待月橋(たいげつきょう)上から、巴川の川床にあるものを観察しました。
待月橋上から上流側を眺望すると、この日の水路は川幅の半分くらいしか無かった。
上記写真の左手(右岸)が飯盛山で、待月橋の上流150mあたりから、巴川は飯盛山に沿って左手(東)へ回り込んでいることから、右岸の川床は多く露出しており、そこに細かいパウダー状の白い砂が乗っており、その砂地に雑草が生い茂っている。
一方、左岸の露出した川床は面積が狭く、雑草で覆われている。
反対側の下流側を眺めると、冷を求めてカップルがやって来ていて、水流に足を突っ込んでいる。
下流側に見えているのが巴橋だ。
上記写真右手が右岸で飯盛山の麓。
左手には巴川に沿って舗装道路が延びており、土産物屋、茶屋、工芸品店などが並んでいるが、平日は人がいないので、ほとんどの店が閉まっている。
待月橋の中央から下流側の足元を見ると、シャフトの部分が抜けてしまったゴルフクラブの先のような形をした石が川床の段差部分にあって、水を受け止めていた。
足助町で遭遇した石の中ではこれまでも基本的に“平面”を組み合わせたような形態をした石と複数、遭遇してきたのだが、この石もその類だ。
ゴルフクラブでいうと、「クラウン」と呼ばれる塊の部分からシャフトを差し込む「フェラル」と呼ばれる部分が棒状に延びているのだが、上記写真、クラウンの右手前の平面部に「丸い鼻の両側にアーモンドアイ形の両目」が付いていて、顔に見えたので、撮影したのだが、人為的なものではないとは思われる。
しかし、水流にさらされる場所にある石の表面に、こんな人為的に見える造形が自然にできるのは本当に不思議だ。
この石はクラウンとフェラルの継ぎ目にヒビが入っており、いずれは2つに分かれ、左隣に見える黒い石のように「不思議な石」ではなくなるのだろう。
待月橋を対岸の左岸に渡りきると、待月橋から巴川に沿って上流に向かう両側にステンレスポール柵を巡らせた遊歩道のようなものが設けてあり、その脇の岩壁が、どうにも奇妙なものだったので、見に行った。
この岩壁は目の前で見てみたら不思議なものではなく、おそらく岩が崩れるのを防ぐためにコンクリートで隙間を埋めたのだが、コンクリート部分の幅が広い部分があり、〝自然感”が失われてしまうので、ただコンクリートで平面的に埋めるのではなく、小型の自然石をコンクリートに埋め込んで表面にマチエール(模様)を付けたものだった。
結果的にジョルジュ・ブラックの絵画のようになっていたのだ。
そして、この岩壁の前に立ったら、上から水が流れ落ちていることにきづいた。
水流の脇に文化財マークの付いた「宮の滝」という名称の立て札が立てられていた。
対岸の飯盛山には、かつて真言宗寺院が存在した可能性があるので、もしかすると滝行場であったのではないかと思われる規模の滝だ。
『滝ペディア』「香嵐渓/宮の滝」(https://www.takipedia.com/detail/3307)によれば、「落差7mの直瀑」とある。
滝行に使用された時代には足助町は町ではなく、観光名所でもなく、山深い場所だったのだと思われる。
そうした山深い場所でなくても、実際、東京都世田谷区の等々力渓谷(とどろきぇいこく)沿いの住宅街の中にある等々力不動尊(真言宗智山派寺院)には現在も滝行場があるので、香嵐渓に滝行場があっても不思議なことではない。
宮の滝の「宮」とは神仏習合した場所を示す場合があるので、修験道と関係がある場所であることを示した名称なのかもしれない。
滝の脇には石が積まれていた。
地球上の各地の民族の間で石積はされてきており、護符や信仰を表す場合がある。
日本で著名なものは賽(さい)の河原の石積だが、この場合は親に先立った子供が賽の河原で石積を行うと説明されている。
上記写真では五つの石が積まれているが、右隣にも石が積まれていたのではないかと思われる空間があり、一番下の石だけが残っているように見える。
台風の通る日本列島で、この積み方で、何年も石積が崩れずに残る可能性は低いから、割合に最近積まれたものではないかと思われるのだが、修験者か密教僧がここにやって来たことを示すものなのかもしれない。
宮の滝から 待月橋に戻り、巴川沿い左岸の道を下流に向かった。
待月橋の近くの川床には巴川が濁流になった時に流れて来たものではなく、長い年月ここに存在して水流によって磨耗したと思われる形態の巨石が多く見られた。
ところで、ここ足助町の河原では昭和40年代ころまで河原に居住するサンカ(山窩)の姿が見られたとする情報を、インターネット黎明期の時代のネット情報で見た記憶がある。
「サンカ」に関しては様々な説があるので、Wikipediaにある最初の説明文「日本にかつて存在したとされる放浪民の集団である。」とだけ紹介しておくので、興味があれば、Wikipediaを観てもらいたい。
「足助町の河原に居住」というと、巴川の河原としか考えられない。
民族部会専門委員である伊東久之氏の論文『愛知県における河川漁民の呼称と民族史的意味』によって、サンカのような漂泊的側面を持った川漁師で「ポンスケ」と呼ばれる人々が存在したことを知った。
その論文の「まとめ」(P86〜87)を要約して紹介しておく。
巴川沿いを終着点の巴橋西のたもと近くまでやってくると、シンプルで美しいマンホールの蓋があった。
マンホールの蓋に惹かれるのは素材がすべて古代から価値のあった鉄で出来ており、日常生活では滅多に遭遇しないサイズの一体成型の鉄だからだと思う。
それがフェチズムを刺激する。
同じ系統のものに機関車がある。
どんなに新幹線の車両が格好良くても、鉄むき出しの機関車の代わりに鉄フェチズムを刺激することはない。
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モーターサイクルに乗っていると気づくことですが、川沿いの道路にはマンホールの蓋が多くなります。それは河川につながっている暗渠が道路地下のスペースを利用して通されるからです。そして、なぜモーターサイクル利用者がマンホールの蓋を強く意識するかというと、鉄はスリップしやすく、モーターサイクルが転倒する原因になるからです。だからこそ、上記の蓋のようにスリップしにくい表面に凸凹のあるデザインになっているのです。