伊川津貝塚 有髯土偶 77:八王子
愛知県新城市(しんしろし)豊岡の石像物群の周辺に目的の築上神社(つきあげじんじゃ)はあるはずなのですが、それらしきサインがありませんでした。ただ、石像物群を撮影するために愛車を駐めた新望月街道(仮称)の向かい側から南の森の中に延びる通路があったので、入っていってみることにしました。
森の中に入って行ってみると、東西に延びる少し広い道にぶつかり、西の方に開けた場所があり、社殿らしき建物があった。
そして、少し広い道が表参道とするなら、とんでもない方向を向いた石鳥居があった。
石鳥居の前側に回り込むと、拝殿が真正面に位置していた。
おそらく、元の社頭はこの鳥居の向いた方にあったのだろう。
現在は築上神社社地の東隣の公共のグランドから入ってくるようになっているようだが、そちらに社頭のサインになるものが存在するわけではない。
鳥居には黒地に「築上神社」と抜いた社頭額が掛かっている。
鳥居の左右の柱の前には天孫族を示す、榊と思われる若木が伸びている。
左右の柱の前に榊と思われる樹木を配置するのは、この地域の基本になっているようだ。
拝殿は横に長い瓦葺切妻造の建物で、向拝屋根が前に突き出ている。
拝殿の正面に立つと、向拝の柱には榊立てが結わえ付けられていた。
そして、柱の内側には1対の常夜灯が設置されていた。
拝殿の板戸は4間の荒い縦格子戸で、内側に金網が張られている。
常夜灯の間で参拝したが、境内に案内書は無く、ネット上に以下の祭神の情報があった。
ここには誓約(うけひ)でアマテラスの生んだ五柱の男神、スサノオの生んだ三女神、そしてスサノオが祀られている。
愛知県に多い八柱神社、全国に祀られている八王子神社と同じ系統の神社だ。
元は神仏習合下の八王子権現信仰に由来する神社だ。
日本神話の神々になったのは明治以降のことだろうが、スサノオが祀られているのに、アマテラスが祀られていないように、元は牛頭天王(スサノオと習合)が祀られていた場であることが推測できる。
牛頭天王には頗梨采女(ハリサイニョ)との間に以下の8人の子(八王子)がいるとされ、これを祀ったのが八王子神社だ。
八王子は八方位の暦神に比定され、八将神とも呼ばれる。
表通りに石仏が集められていたのも、ここが神仏習合していたことと関係があると思われる。
縦格子戸越しに拝殿内を見ると、拝殿内は格子戸の部屋と向かって右手の部屋がつながっており、左手の部屋は壁で仕切られている。
渡殿を介して正面奥には本殿覆屋の細かな格子戸が見えていた。
渡殿入り口の上には中央に刀が掛かった額が奉納されており、その両側には神話を描いたような日本画が奉納されていた。
拝所から本殿覆屋を観るために拝殿の左手(東側)に廻った。
拝殿、本殿覆屋とも側面は、鶸(ひわ)茶色に染めた板張りになっていた。
境内社がないか社叢の中を探してみると、東側のグランドを背にして、基壇を持つ石祠が祀られていた。
基壇を持つ石祠はその前左右に伸びている樹木を利用して注連縄が張られ、その真下の地面には敷石が引かれ、2段だが石段になっている。
その石祠は苔と地衣類の生した石の角材を組んだ基壇上に設置され石祠の土台の前縁には複数の白い陶器が乗っている。
室(むろ:部屋の躯体)の正面に扉は無く、稲魂形の穴が穿ってあるのみだ。
石祠に近づいてみると、白い陶器は8体の使いの狐だった。
それに1円硬貨が5枚。
稲荷社だった。
動物のまったくいない空間では、こんな作り物の狐でも、みんなでこちらを注視しているように見え、可愛いく思える。
稲荷社の前から、本殿覆屋の裏面に回り込もうとすると、杉の根元に室に長方形の小さな穴を持つ石祠が祀られていた。
気づくと、その石祠のために石祠に匹敵する大きさの自然石を組んだ石垣になっていた。
この石祠はやはり推測に過ぎないが、さっき寄ってきた名合(みょうごう)の六所神社にもあった
地主神(山神社)である可能性のあるものだと思えた。
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牛頭天王(ゴズてんのう)と頗梨采女(ハリサイニョ)という音を聞くと、海外のニュアンスを感じます。それももっともで、牛頭天王はインドのコーサラ国首都シュラーヴァスティー城壁南端から西南約500mの位置にあった祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ:修道施設)の守護神だからで、頗梨采女はその后とされる神だからです。祇園精舎とは祇樹給孤独園精舎の簡略名称です。その牛頭天王を京都の感神院祇園社に祀った人たちが存在したことになります。感神院祇園社の現在の名称が八坂神社。「八坂=弥栄(やさか・いやさか)」でもあります。この名称からは秦氏とスキタイ系サカ(シャカ)族を読み取れます。インドと秦氏を結びつけたのが釈迦族なのかもしれません。なぜなら、祇樹給孤独園精舎は釈迦が説法を行った場所でもあるからです。