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伊川津貝塚 有髯土偶 43:破壊神クニトコタチ

愛知県岩倉市北島町の御嶽山(おんたけさん) 福寿講社から、道路の向かい側斜め北にある白髭神社の北側に面した御嶽神社に向かいました。白髭神社の脇に駐めた愛車はそのままです。

愛知県岩倉市北島町 御嶽神社
岩倉市北島町 御嶽神社

北島町 御嶽神社は塚に生い茂った社叢を玉垣が囲んでおり、さっき寄った御嶽山 福寿講社と同じ「講祖壽覚霊神」の幟が3本、ひるがえっていた。

愛知県岩倉市北島町 御嶽神社 社頭

玉垣には黒くペイントされた観音開きの鉄柵門(ヘッダー写真)が2ヶ所に設けられていたが、その右側の門の前には中央に手水桶が置かれ、手水桶の両側には対になった常夜灯、その外側には、やはり対になった背の高いクロームメッキされた幟柱が設置されている。
玉垣の外側にはほかに灯明台や石灯籠も並んでいる。

鉄柵の上には唐草模様の装飾されたアーチ状の門が掛かっており、その頂点には「御嶽神社」と浮き彫りされた社頭額が設けられ、その頭には剣が装飾されていた。

岩倉市北島町 御嶽神社 鉄門 社頭額

門越しに中を観ると、右から覚明行者(かくみょうぎょうじゃ)石造、傾いた「覚明霊神一百五十年祭〓」と刻まれた記念碑、女性らしき霊神石像、後で紹介する板碑が、自然石を重ねた塚の上に点在している。

北島町 御嶽神社 塚 石造物群

覚明行者とは江戸時代の尾張の行者。
百日に及ぶ重潔斎を実行できる人物しか登ることのできなかった御嶽山だが、江戸時代末期に覚明行者が黒沢口を開き、一般の人々による御嶽山登拝を可能にした人物である。

上記写真左端の板碑を正面に回って撮影したのが下記の摩利支天(まりしてん)板碑だった。

北島町 御嶽神社 摩利支天板碑/社

摩利支天は名称から天部の一尊であることが分かるが、本来は陽炎(かげろう)を神格化した二臂(にへき:2本腕)の女神であり、実体の存在しない陽炎が焼けず、濡れず、傷付かないことから、山本勘助や前田利家など複数の武将に信仰されたと伝えられている。
しかし、ここ御嶽神社の摩利支天像は走る猪の背に乗って武具を操る三頭六臂の戦闘神である。
手には棍棒、軍扇、弓矢、鉾を持っている男神だ。
木曽御嶽山は「摩利支天山」という別名を持っており、この塚が木曽御嶽山の雛形であることを示す印と言える。
摩利支天像の背後の社は情報が無く不明。

この塚には他にも複数の不明な石像が奉られている。

北島町 御嶽神社 石像類

塚の中央部の頂点には本殿と思われる社が祀られていた。

北島町 御嶽神社 塚 本殿(?)

それをUPにして見てみると、銅板葺流造の社だった。

北島町 御嶽神社 本殿(?)

その社前には対になった狛犬が設置してあり、周囲には霊神像や複数の石造物が見える。

木曽御嶽山の本殿に祀られているのは以下の3柱だ。

国常立尊(クニトコタチ)
大己貴命(オオナムチ
少彦名命(スクナヒコナ)

ムチ」が「穴に棲む蛇」を示す古語であり、「」が「綱の象形」である大己貴命は日本列島の国土を開発した蛇神であり、少彦名命大己貴命をサポートした渡来人であることは知られている。
筆頭に祀られている国常立尊は『古事記』では別天津神(ことあまつかみ)5柱に次いで現れた神世七代の最初の神とされている。
御嶽信仰では国常立尊が重要視されたが、そこには国常立尊が世の建て替え立て直しのために現世で力を顕現するとした教団大本の影響があると思われる。
国常立尊にはヒンドゥーのシヴァ神と共通する破壊神としての側面があり、同一視する見方もあるが、「破壊」とは大本のいう「建て替え立て直し」の前提だよね。

御嶽神社の塚にはほかにも以下の霊神像と思われる石像が見られた。

北島町 御嶽神社 霊神像(?)

以下は幟の頭頂に入った神紋

北島町 御嶽神社 幟 神紋

(この項終り)

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木曽御嶽信仰の塚や神社は愛知県の北部には多く見られますが、中には大きな境内を持つものもありますが、久しく祀られていない痕跡の場も多く、この30年間に観て来た印象でも荒廃は進んでいる印象があります。

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