麻生田町大橋遺跡 土偶A 80:六柱の皇子と産土石
愛知県岡崎市蓑川町(みのがわちょう)の松尾神社から県道327号線〜国道748号線〜県道293号線などを経由して北西5.3km以内に位置する岡崎市真宮町の真宮神社(しんぐうじんじゃ)に向かいました。
真宮神社の社頭はほぼ南向きで、西脇には高架の愛知環状鉄道が通っていました。
愛知環状鉄道なんていう鉄道の存在を初めて知りましたが、岡崎市と春日井市を結ぶ鉄道だという。
それはともかく、真宮神社の社頭は幟柱が一般道を挟んだ南側にあり、玉垣はその一般道を挟んだ北側に面して延びていた。
異例なのは社頭に3社の社号標が立てられていたことだ。
表参道にもっとも近い右から「村社熊野神社」。
2番目に表参道に近いが、少し奥に立てられた「市杵島社(いちきしましゃ)」。
もっとも表参道から遠いがもっとも大きな(際立って大きなわけではない)社号標が「村社 新宮神社」だった。
この社号標の立て方だと過半数の人間は、ここの神社は熊野神社だと受け取ると思われる。
実際、小生もこの記事に取り掛かるまで、そう思っていた。
一般道から20m以内に石鳥居があり、その奥50mあまりには明るい水色の屋根を持つ拝殿らしき建物が見える。
愛車を幟柱脇に突っ込んで、コンクリートでたたかれた表参道に入ると、石造八幡鳥居は中央が30cmほどの高さの踊り場に建てられ、コンクリートでたたかれた表参道は踊り場の向こう側から拝殿らしき建物に向かって延びていることに気づいた。
石鳥居に掛かっている社頭額には「真宮」とだけ浮き彫りされており、この時も向かっている参道は真宮神社だが、熊野神社の参道と社殿は別に存在するのかと思っていた。
3段しかない踊り場の石段を上ろうとすると、踊り場はコンクリートたたきではなく、白黒の玉砂利が敷かれていることに気づきました。
石鳥居に掛かっている注連縄も太く、垂房も立派なものだった。
鳥居をくぐって、表参道を奥まで進むと鉄筋造の拝殿前に至ったが、拝殿は入母屋造で両袖に回廊が延び、唐破風の向拝屋根が突き出ている建物で、6段の石段を持つ土壇上に玉垣を巡らせた中に設置されていた。
結局、熊野神社と市杵島社の拝殿らしき建物は見えなかった。
拝殿前中央に置かれた賽銭箱には銅板の丸に十六菊紋が装飾されていたが、この神紋は皇室の紋ではないものの、皇室とは何らかの関わりのある神紋だと思われる。
賽銭箱の隣には今年の干支である大きな虎の木彫が置かれていた。
その足元には虎の子供らしき像も置かれていたが、これは別物で、不要だろう。
賽銭箱の前で参拝したが、社前板書『眞宮神社鎮座の由緒』によれば、祭神は伊弉那岐尊(イザナギ) ・伊裝那美尊(イザナミ)であり、由緒は以下となっていた。
人皇十三代成務天皇の御代(紀元791年1805年前)に紀伊国明月新宮を我が額田郡に移し眞宮祭稱す。其後人皇二十八代宣化天皇の皇女小石姫の命紀伊国及三河国を領し給ひ御在所を当影山に定め給ひ皇子六柱を産せ給ふ。皇子は即石桐王、足取王、 麻苔玉、大它王、伊美加王、山代王なり、皇子産ませ給ふ毎に帯に石を抱き以て眞宮に安産を祈らせ給ふに六柱とも安産し給いしかは喜び六石を祭らせ給ふ(現在の字石神)此産神石、平田石、二を黒門石、三を夏木石、四を草集石、五龍童石、六を小女石、と云ふ、即ち平田石は石桐王の産神石、黒門石は足取王の産神石、夏木石は麻王の 産神石、草集石は大它王の産神石、龍童石は伊美加王の産神石、小女石は山代王の産神石、故に此の地を六石邸と称す、六石は後眞宮に奉祭す、其の後天正年間(紀元2247年349年前)山中彈正左エ門、岡崎に築城するに際し当神に奉祭せる六石の内神と為す。龍石を城心に埋めたる以って龍ヶ城と云ふ、平田石城北の門に埋めて平田門と云ふ、草巣石を城の辰巳の方に埋めて草門と云ふ、黒門石を城の東方に埋めて門を築き黒門と云ふ。
天仁年間神尾中條額田郡を御支配あり、此時当眞宮へ御領として石高七十石を寄進給ひ 萬民信仰厚く安産の神様として祈願する人が絶えず。 時に神主は七人を数へたと聞き、其の頃紀伊の国より眞官様の返還の求めが来るも御許しにならず徳川時代となり、政変により焼失し御神体は安全にして寺嶋の寺、今の正福寺に預けて、預り証が出て、其の後 八代将軍吉宗の時代となり之を知り、眞宮神社を再建せよと命し本殿を再建し、正福寺より受け預り証は正福寺に有りたるも現在不明、其の頃残り二石を本殿下に埋、吉宗公は 此の時に六邸を改め六ツ名とす、云ひ傅にて今尚残る眞宮神社の御神体の尊さを偲び今は 只、六ツ名の地名あるのみ。
境内八百四十一坪、社有林反別八反三畝二十四歩、大正二年十一月 氏子六十九戸
昭和四十四年から五十五年にかけて岡崎市施工による南部土地区画整理事業が行われ町界 名が変更されたこと機会に、熊野神社(中六名)市杵島社(今御堂)を眞宮神社に合祀し 地域住民の和をさらに深めるとともに郷土の発展を祈念するものである。
時に三社合祀建設昭和五十五年十月吉日
平成八年八月吉日記
あまりに長い由緒書だが、わかりにくい部分だけ、解説してみる。
「眞宮」は和歌山県の「新宮(しんぐう)」の当て字を変更したものだった。
第二十八代宣化天皇の皇女小石姫命(おいしひめ)が新宮とこの地、眞宮に領地を所有していて、六人の子を出産した時に安産を祈念して腹帯に石(産神石)を抱いたとあるのは、腹帯の起源とされている『古事記』にある息長帯日売命(オキナガタラシヒメ=神功皇后)が朝鮮半島に出兵した折、お腹に後の応神天皇を身ごもっていたが、石を帯の中に巻きつけて出かけ、帰った後、無事にご出産されたという故事に則した行為を表したもの。
小石姫命の6人の子の6コの産神石(うぶすないし)を祀ったのが真宮神社であり、社号標にある熊野神社と市杵島社は真宮神社本殿に合祀されているということだと受け取った。
拝殿の東側に回ると、鉄筋造の流造本殿の屋根には五本の鰹木と外削ぎの千木が乗っていた。
つまり、伊弉那岐尊を表したものと思われる。
拝殿前右手には表参道の方に斜めに向けて「六名神社」の扁額の掛かった石造明神鳥居が設置され、すぐ奥には鉄筋造で入母屋造棟入の社が祀られていた。
『眞宮神社鎮座の由緒』には「熊野神社(中六名)」とあるので、それでは熊野神社が、この六名神社になっているのかと考えた。
しかし、鳥居をくぐって、この社殿の前に立つと、三つの観音開きの扉が並んでおり、中央には「稲荷大明神」、向かって右には天神社、左には「秋葉神社」の表札が掛かっていた。
つまり、境内社ということであり、なぜ「六名神社」という名称になっているのか意味が理解できませんでした。
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眞宮神社は航空写真で見ると、社地が変則の六角形をしており、脇参道が表参道と直角ではなく、斜めに結びついており、しかもその角度が統一されていない、ある意味面白い配置にしてある境内でした。ここにやって来たのは3月下旬のことで、表参道に覆いかぶさるように枝垂れ桜が満開になっていました(ヘッダー写真)。