伊川津貝塚 有髯土偶 53:橋の記憶
愛知県田原市高松町を流れている汐川(しおかわ)北岸を川下に向かって、さらにたどりました。
汐川から分岐している大久保川から180mあまり下ると、汐川上流から2基目の橋に出ました。
それはコンクリートでたたかれた橋面の側端部に高さ40cmほどの地覆(じふく)をつけただけのプレーンな橋だった。
橋巾2.5m、橋長6mほどで軽四輪が楽に渡れる橋だが、橋の両岸のつなぎ目に雑草が繁殖していて、車が通っている形跡はない。
地覆が付いていることで、橋の構造は強化され、雨水の導水の役にたち、車の脱輪が防止できるのだ。
橋の始まりは人類が河川を渡るための丸太を渡したものとか、両岸に蔓を張ったものとか想像ができるが、『古事記』の神話では最初の橋は「天浮橋(あめのうきはし)」と記述されている。
イザナギとイザナミが天と地をつなぐ天浮橋に立って天沼矛(あめのぬぼこ)で渾沌とした大地をかき混ぜ、矛から滴り落ちたものが積もってオノゴロ島を始めとする島々が生まれたとする神話だ。
天浮橋は片方は地面につながっているものの、片方は天につながっている。
つまり空中に浮いているのだから「天池の間に浮いている橋」ということなのだろう。
しかし、日本神話にはもっとリアルな浮橋が登場する。
『古事記』には「稻羽之素菟(いなばのすうさぎ:因幡の白兎)」がワニザメ(和邇)を欺いて、隠岐の島から気多の前(陸地)まで並ばせ、ワニザメの上を渡ろうとする神話がある。
ワニザメは海に浮いているのだから「浮橋」と言えるのだが、ここでは橋とは認識されていない。
神話ではなく、「御木のさ小橋(みけのさをばし)」という名称の倒木を利用した橋の記録が『日本書紀』(景行天皇18年)にはある。
御木のさ小橋の場所も分かっていて、福岡県大牟田市の三毛(三池)の地にあったとされている。
景行天皇の皇居に仕えている人たちが毎日、渡るための橋だったらしい。
景行天皇は好戦的な人物だったので、皇居の周囲には防衛のための濠が巡らされていた可能性があり、事あればすぐ落とせる橋が必要だったのだろうか。
上記のような文献の存在しない時代に橋が存在したことは考古学の発掘調査で明らかになっている。
弥生時代の中期末(紀元前後)には、各地で環壕集落が作られたが、神戸市川谷町と富山県上市町では環壕集落を取り巻く巾約4mの壕を渡るための橋の遺構が発掘されているのだ。
景行天皇のもとに出使するための橋と同じ系統の橋だと思われる。
橋はともかく、高松町 汐川に架った無名橋2(仮名)の上から上流側を見下ろすと、両岸からは雑草と潅木が水面の中央部にまで迫っていた。
北岸(上記写真右手)の麓にはコンクリートブロックが敷かれている。
一方、無名橋2の下流側は両岸のススキや灌木でさらに凄いことになっていた。
橋下直下の水面はほとんど見下ろすことができない状況になっていた。
このため、地図にはこのすぐ下流に汐川から南に分岐する用水路らしきものが表記されているのだが、視認することができなかった。
ただ、少なくとも雑草がこのままになっているわけではなく、農閑期には農業従事者が主になって刈り取りが行われ整理されるのだろうが、土手なので大変な作業だと思われる。
都会ではこうした場所は税金が投入され、塞がれて暗渠にされ、手が掛からないようになっている。
無名橋2から下流180mあまりに架かっている無名橋3に移動する路肩に気になる植物が目についたので、撮影した。
それは花冠が5裂した星形の淡いピンクの小花(花径約5mm)を咲かせた植物で、茎が綾のある四角形で粗い毛が生えていて、摘むとざらつきがあって、指の腹に引っかかる特徴があり、いつも、つい目が止まってしまう植物だった。
調べてみると「ダキバアレチハナガサ」という名称で、南アメリカ原産の帰化植物であることを初めて知った。
アレチハナガサやヤナギハナガサと長い間、混同されていた植物で、ここのような河川敷や道端に生育する植物だという。
漢字表記は「抱き葉荒地花笠」である。
花期は6〜9月頃とされているが、環境によって4月〜12月もありうるという。
無名橋3に到達すると、コンクリートでたたかれた橋面の側端部に高さ50cmほどの高さの欄干を設け、欄干に窓を開けたような様式の橋だった。
この橋は頻繁に使用されているようで、田畑地の赤土が橋面に乗っており、トラクターの通り道になっているのかもしれない。
何よりも、夜間でも脱輪防止のために橋巾を表示してくれる大きな反射板が取り付けられていた。
無名橋3上から汐川の上流側を見下ろすと、南岸(下記写真左手)の潅木は枝葉で水面を覆っているが、北岸は雑草のため、コンクリートの護岸が露出していた。
同じ無名橋3上から汐川の下流側を見下ろすと、南岸の潅木が北岸まで枝葉を伸ばしていた。
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高松町の字名をチェックすると、難読名称の少ない地域であることが判りました。その中で個人的に興味を惹かれた字名が「持相(もつそう)」という名称でした。その意味をしらべてみると、一般的には「モヤイ」、あるいは」「モアイ」と読まれる言葉で、『歴史民俗用語辞典』によれば、「他の人と共同で物事を行うこと。また、その組織。」と定義されていました。意味不明の段階では面白い言葉だと思いましたが、意味を知ると、「モヤイ」、「モアイ」という一般的な読みの方が意外で面白いなと思いました。