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伊川津貝塚 有髯土偶 68:空海と丹生族

今回は愛知県新城市(しんしろし)川合(かわい)の諏訪神社から表通り(振草三河川合停車場線)に戻り、北上すると、150m以内で飯田線の踏切を越えた。踏切を越えて、さらに北上すると、40mほどで、右手はよく伸びた杉林、左手は痩せた潅木の茂った山裾の土手で、光が少なくなり、光景は薄暗くなりました。さらに50mほど北上すると、右手の杉林を通して眼下に宇連川(うれがわ)の水面が視角に入って来ました。宇連川の水面を見ながらさらに北上しました。

中央構造線 愛知県新城市川合 豊鳳二十一弘法大師
新城市川合 豊鳳二十一弘法大師/乳岩
川合 宇連川無名橋/駐車場/豊鳳二十一弘法大師

飯田線踏切から550mあまりで、宇連川に掛かる無名橋のたもとに出た。

愛知県新城市川合 宇連川無名橋

乳岩に向かう道はこの橋を左岸(東岸)側に渡った側にあるので、愛車で橋を渡って乳岩に向かう道に出ると、出た場所から先は舗装された遊歩道になっており、車止めが設けられていた。
いつも、山に入る時は入れる場所までは愛車で入るのだが、左岸側の道路にはモーターサイクルでも駐められるスペースは無く、右岸の上流に駐車場が設けられているのみだった。
やむなく、無名橋を右岸に戻ると、橋のたもとにバイクなら2台駐められそうなスペースがあったので、そこに愛車を駐め、その脇の林の中で、半袖Tシャツと薄いパンツに着替えた。
10月の早朝に自動車専用道路をやって来た服装で山道を登れば、5分で汗だくになってしまうからだ。
無名橋には上流の駐車場から徒歩で下って来て、橋を渡って乳岩に向かう人たちが現れ始めたが、そのほとんどが男女のカップルだった。

今度は徒歩で無名橋を渡った。
さっそく無名橋の下流側河床には巨大な奇岩が剥き出しになっていた。
灰色だが、鍾乳石ぽい岩で、水による侵食か、角張った部分が一ヶ所も無くなっており、左岸にも同質の岩が連なっている。

新城市川合 宇連川無名橋 下流側河床

一方、宇連川無名橋上から上流側を見ると、下流側と同じ川とは思えない表情をしていた。

川合 宇連川無名橋 上流側

巨石がほとんど見当たらないのだ。
ただ、上記写真河床右手(左岸側)に下流側の鍾乳石ぽい岩と同じ灰色の岩が顔をのぞかせている。
無名橋上からは死角になっているのだが、この灰色の岩の脇からは乳岩川が宇連川に合流していた。
つまり、鍾乳石ぽい岩は乳岩川の方に由来する岩のようなのだ。

無名橋を渡って、乳岩に向かう道に入ると、その道は乳岩川に沿って北に向かっていた。
河床を見ながら上流に向かうとすぐ、さっき見て来た鍾乳石ぽい岩とは表情の異なる巨石が河床にゴロゴロ転がっていた。

川合 宇連川 河床巨石

凝灰岩だと思われるが、転がって角は取れているものの、このあたりは水量が少ないこともあって、無名橋下流の鍾乳石ぽい岩のような滑らかさは無く、表面はゴツゴツしており、褐色に焼けている。
凝灰岩は塊状で、割れ方に方向性は無い。
凝灰岩は火山灰が地上や水中に堆積してできた岩石だ。
ということは、かつて奥三河には火山が存在したことになる。
調べてみると『まっぷる』ウェブサイトに「設楽火山とは?約1500万年前の奥三河で大噴火した火山があった!?」の見出しが立てられていた。
そして以下の説明文が。

太古の奥三河には海が迫り、その後は鳳来湖を中心とした一帯で激しい火山活動がありました。

『まっぷる』https://www.mapple.net/articles/bk/6122/

鳳来湖は現代になって築造された人工湖だが、無名橋下流に見えていた鍾乳石ぽい奇岩の存在する宇連川のすぐ上流に存在するのが鳳来湖なのだ。
日本列島に人類が出現したのが400万年前と言われているので、火山活動があったのは、そのさらに昔のことだ。
今では愛知県に火山があるとは誰も思っていない。

さらに上流に向かうと、河床脇に降りられる場所があったので、降りて行ってみた。
水量はほとんど無く、河床は巨石から最小の粒まで、同じ赤い凝灰岩であることが見て取れた。

川合 宇連川 河床

逆に細かな砂は1粒も存在しない。
水は透き通っていて綺麗だ。

さらに上流に向かうと、水量の多い場所に出た。

川合 宇連川 河床

ここでも河床脇まで土手を降りて行ってみた。
この部分の河床の石は扁平に破砕されたばかりの石が積み重なっており、巨石を除くと、エッジが全て尖っており、水中の石も水上の石も焼けている。
水は本当に透明で美しく、真夏なら腕を浸したいところだ。

尚も乳岩川沿いを歩いていると左手の乳岩川が見えなくなり、唐突に予定外で赤地に「豊鳳二十一弘法大師」と白抜きした複数の幟が立つ場所の前に出た。

川合 豊鳳二十一弘法大師

この部分では通路と乳岩川が少し離れており、その間の林の中に設けられた広場になっている霊場だった。
広場の奥には乳岩に向かう通路の延びている東を向いた弘法堂と思われる切妻造棟入の堂があり、通路から道に向かって4m幅のありそうな参道があり、その参道の両側にはそれぞれ3列の石仏群が奉られていた。

参道を弘法堂に向かうと、堂前には4段の石段が設けられており、観音開きの格子戸には複数の鮮やかな千羽鶴の房と真言(しんごん)の記された布が垂らされている。

川合 豊鳳二十一弘法大師 弘法堂

堂内を見ると、赤い帽子と涎掛けを与えられた大きな弘法大師石像と、その脇に小さくてカラフルな着彩のされた弘法大師像が須弥壇に並んでいた。

川合 豊鳳二十一弘法大師 弘法堂堂内 弘法大師像二体

弘法大師石像の背後には達磨大師の掛け軸、天井からは玖珠玉が下がっている。

『ニッポンの霊場』ウェブサイトには「弘法大師 豊鳳二十一ヶ所霊場」に関して以下の情報がある。

札所数=23(番号付き札所:21 客番・番外札所:2)
公式情報・事務局=豊鳳開運二十一大師霊場会[歓喜寺]
開創年=昭和8(1933)年
備考 ・豊橋市内から鳳来に向かう沿線上に、札所が点在している。
  ・弘法大師霊場ではあるが、真言宗寺院は1ヶ寺のみ
   (元真言宗は他にもあり)。
情報掲載日・更新日=公開:2014年06月25日  更新:2018年06月05日

『ニッポンの霊場』
https://nippon-reijo.jimdofree.com/掲載霊場の一覧/弘法大師霊場/豊鳳二十一ヶ所霊場/

弘法大師(空海)は真言宗の開祖だが、仏師としての活動など、仏教関連に限らず、書や「いろは歌」と平仮名の考案説、最近ではカタカナの創始者説などもあって、日本では最も高名な僧侶と言える。
弘法大師伝承は北海道を除く日本各地に5,000以上存在するとされる。
「大師が杖をつくと泉が湧き出た」という弘法水伝承の場所も、日本全国で千数百ヶ所にのぼるという。
発見されたという温泉も25ヶ所に及ぶ。
讃岐うどんなど複数の食品に関する由来説も存在する。
そして何よりも水銀鉱脈との関わりの伝承も知られており、ここ中央構造線の内帯に豊鳳二十一ヶ所霊場が設けられていても不思議ではない。

日本列島の丹を探し歩いた丹生族(にうぞく)が丹生都姫(ニウツヒメ)を祀ったことは以下の記事で紹介したが、

丹生都比売大神と高野御子大神を祀った和歌山県伊都郡かつらぎ町の丹生都比売神社が丹生都姫を祀った神社の総本社である。
『丹生都比売神社』の公式ウェブサイトに「弘法大師に高野山を授けた女神の社」の項目がある。
それは以下のような伝承だ。
空海が高野山を開くにあたり、2人の人物に道案内されたというのだ。
2人の人物とは高野明神(高野御子大神)と丹生明神(丹生都比売大神)の化身だったと言われ、特に高野山周辺の地元神である丹生明神は、空海に現在の伽藍がある土地を譲った恩人とされている。
そのことから、高野山では、丹生明神が、信仰の中心である壇上伽藍に守護神として祀られているという。
この伝承は空海と丹生族の間に関わりがあったことを示唆するものだ。

下記写真は石仏群の中に存在する弘法堂。

川合 豊鳳二十一弘法大師 石仏群/弘法堂

自分以外に、ここを覗いていく人たちは皆無だった。

(この項、続く)

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乳岩川の流れている乳岩峡(ちいわきょう)は全長4kmの渓谷です。目的地の乳岩はこの渓谷のシンボルですが、巨石でもあるのかと思っていたら、標高670mにも及ぶ乳岩山だとのことです。この岩山に登ることになるとは全く考えていませんでした。


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