「母親の後悔」について考える
母親の後悔について特集したNHKの番組「クローズアップ現代」が2022年12月13日に放送されていて、たまたま視聴した。この番組は、イスラエルの学者が母親たちにインタビューしたのをまとめた「母親になって後悔してる」という本が、
日本でも翻訳されて話題になったことから取り上げたということのようだ。
その番組の内容についてまとめたものはこちら↓
端的に言うと、子どものことは愛しているが、母親になったことを後悔しているという内容のもので、番組では数組の母と子を取材し、母性について湊かなえさんにインタビューしたもの、山崎ナオコーラさんに話を聞くという構成だった。
番組で取り上げられていた後悔している内容を私なりにざっくりまとめると以下の三点になる。
1.良い母親とされているような母親にはなれない自分。
2.母親ということの役割の重さ。
3.仕事のキャリアを諦めないといけない。
番組を見て私が感じとって考えたことは大きく分けて三点あった。
1.母親というロールモデルについて
2.その母親に後悔が生まれる社会的な背景
3.個というものが強調されすぎる時代
上記の三点を含みながら、私が感じたことを思うままに書いてみようと思う。
現代のような情報社会においては、自らの親や親戚など近しい存在の母親の姿だけでなく、小説やドラマなどのフィクション、育児雑誌の情報、SNSの見知らぬ人たちの母親自身の考え、母親に対するいろんな人の意見など、さまざまな情報から「母親」をイメージするものはできあがっている。こうすればいいという情報があふれすぎてしまっているゆえに、そうすればよりよくなるのではないかという期待で、母親として頑張ってしまう人たちが多いのではないかと私は考えた。多様性がもてはやされる今の時代、多様な価値観があるがゆえに、自分の中でよりよい母親像を作り上げやすくなっている気がする。今よりも情報の少なかった団塊の世代の頃の母親像と今の母親像が違っているのは、社会的背景もあるだろう。比較的単一な母親のロールモデル、いわゆる規範に合わせるべきものだという感覚があって、そこから外れないように我慢することすらが美徳という価値観が団塊の世代にはあったように感じる。現代は確固たるモデルはむしろ存在せず、曖昧なものであるにもかかわらず、より良くあろうとする意識が強い気がする。
声を上げることがあたりまえになってきたからこそ、「後悔」という言葉が声としてあげられてきたのではないかと思うが、いかんせん、私は話題となっているその本を読んでいないので、イスラエルの母親たちの社会的背景を理解しているわけではない。だから日本に置き換えて私は考えている。
日本人はアンケート結果を見ても、後悔している人の割合は多くはない。でも、番組を見ていて感じたのは、湊かなえさんもおっしゃっていたように、その状況や状態について後悔しているというものだろう。その状況が生まれたのは日本の社会的背景があるからではないだろうか。
1990年代の雇用均等法により、女性が働くということが社会に認められていく一方で、それは女性の人生プラン込みではなく、男性と同等に働けるようにという条件付きだったように思える。妊娠出産という女性にしかできないことは、産休制度を取得することで、配慮されているかのようだが、キャリアという意味では、途絶せざるを得ない。男性は独身でも既婚でもそのキャリアに変わりないのに比べて。キャリアを諦めざるを得ないことを、さもあたりまえであるかのように、日本の社会は配慮しない。そんな余裕もないからだろうけど。
日本でまだ十分に育っていない多様性社会の価値観のなかで、「個」というものが強調されすぎて、自己実現が正義のように扱われている気がする。母親として、その立場を楽しむよりも、あるべき母親像にいかになれるか、こんなに情報がたくさんあるのだから、母親としての役割をきちんと全うできない訳がないという、見えない世間からのプレッシャーを感じとって、苦しみながらも頑張ってしまいがちな気がしている。今できていること、できそうなことを淡々とやっていく小さな努力の積み重ねこそがもっと評価されるべきだと私は思っている。
以上は私が受け取った情報の中からなんとなく感じとっているもので、根拠もなにもないのだけど。
じゃあ、私自身はどうだったのかを少し語ってみようと思う。
私自身はどちらかといえば母親になりたくないと思っていた若者だった。結婚するつもりも子を産むつもりもなかった。それというのも私自身が知的障害の母親から生まれた子であるというちょっと複雑な家庭環境にあり、ちゃんとした母親像に触れてこなかったからというのもあった。
私自身にちゃんとした母親になれる要素がないと最初は思っていた。それが、母親になってみたいと思ったのは、結婚して移り住んだ町で出会った人たちの子育てする姿を目の当たりにしたからだ。
赤ちゃんをおんぶして働く姿、それを受け入れる職場の雰囲気、みんながその赤ちゃんを愛おしく思って接するのを見て、素敵だと感じたからだった。私は当時、知的障害のある方の作業所のようなところで有償ボランティアとして働いていた。そういう福祉的な職場だったからというのもあると思う。
子育てをやってみたい。成長する子どもの姿を見てみたい。そういう欲望だけに突き動かされていたように思う。だからこそ、出産後の子育ては覚悟をもって挑んだ。
私自身が社会福祉を勉強していたバックグラウンドを持つおかげで、できうる限りの施策を利用し、知り合いのお友達まで動員して、いろいろ支援を受けて、産後を乗り切った。
私がいちばん行き詰まったのは、夜、泣き止まない我が子をあやして寝かしつける時だったと記憶している。そのときのつらさでさえも、今は愛おしい記憶だと思える。 頑張ってしまう母親たちと私が決定的に違うと思うのは、母親であることに自分ですら期待していないところかもしれない。いい母親であろうと思ったことはたぶん一度もなくて、自分ができることだけをやろうと思っていた。不得意なことはしないし、私以外の母親だったら我が子が経験したかもしれないと思うことでも、それは仕方ない、私の子どもとして生まれてきたのだからと思っていた。たぶんそれは、私自身がちょっと複雑な環境で育ってきたから、諦めるほうがたやすいし生きやすいと思っていたから、そう考えたのだ。
私は母親になって後悔したことは一度もない。むしろ、母親という役割をさせてもらえる機会を持てたことに感謝している。母親として最低限度の生活環境を与えてあげているだけの気がするけれど、我が子が成長して、できることが増えていくのを、そばで見ていることができるのは、これ以上嬉しいことはない。
正直なところ、我が子が私をどう思っていても平気だ。離れていくことも、親に言えない秘密があることもいいことだと思う。母親以外の人に認められて親しくしてもらってつながりが増えていって、自分の世界ができていっているように見えるのが、ほんと良かったな、と思う。
仕事にしても経験を積みたいと若い頃は思っていたが、まったくうまく行かなくて、資格だけ取って就職できない状態が続いていた。むしろ子育てしながら働いた時からのほうが、まともに仕事ができていたような気がする。たぶんやりたい仕事にこだわって職探しをするのをやめて、できる仕事、できそうな仕事をやるというふうに方針を変えたからだろう。
理想像と実際の自分とのギャップに、まあまあ人はつまずくような気がする。私自身も若いときはそうだった。
この母親の後悔の問題がただそれだけではないにしろ、そうなってしまっているように感じるのは、世間に理想像を作らされている感覚を受けるからだと思っている。 そうならないためには「個の問題」だとせずに、「社会の課題」として捉えて、何があればどんな状況が整えば、母親は安心して「母親」でいられるのかを、社会は考えていき、取り組んでいかないといけないのだろう。そういう意味ではネガティブなことを声としてあげて、とりあげて考えることは大いに有意義だと思われる。
つまるところ、もっと寛容な世の中になってくれ! と思った。
もしかしたら、これに尽きるかもしれない。
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