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「輸血」(作:坂口安吾 演出:小西優司)@演劇集団アクト青山

演劇集団アクト青山 テアトロ・スタジョーネ(夏)「輸血」(作:坂口安吾 演出:小西優司)@演劇集団アクト青山アトリエ

【あらすじ】
「詩も音楽も冷蔵庫も同じように実用的なもんなんだがなア。」 姉夫婦の元を訪ねて来た母と妹夫婦。 どうやら、妹夫婦の離婚問題で来たらしい。 かしましい母と姉妹。 駆け落ち同然の弟と彼女。 空気のような旦那たち。 なぜか居る飛行士。 家族とは?世間とは?愛とは? 『無頼派』の代表、坂口安吾が描く家族の物語。
http://simokitazawa.hatenablog.com/entry/2018/07/02/000000

 「家族の血の繋がりが薄くなっている。だから輸血を」というようなセリフが母親から発せられるが、その血は現代になって、より薄まっているのではないかと観劇後にふと思った。

 各キャラクターのセリフは噛み合っているようで噛み合っていないし、主張は激しいが誰の心にも届かないような話し方は、形式だけ輸入されてしまった個人主義のようだ。

 女の強かさはいつの時代も変わらないのかもしれない。自分を正義として疑わないお節介さが男を黙らせ、縮こまらせ、発言権を失わせるという図式は「敗戦」を機に醸成されたのだろうか。それとも昔からあったのだろうか。敗戦で立場を失った男たちという空気感は、父方の曽祖父が戦争から帰ってきて没落した、過去の家庭の空気を想像させるものだった。

 今の「保守」と呼ばれる政治家たちの唱える「家父長制」復古や「男尊女卑」発言は、高度経済成長への懐古などではなく、戦前に存在したであろう「男性の権力」の復帰を望んでいるのだろうと、リアリティをもって感じられた。戦争を直に経験しなかった高度経済成長期世代は親世代から受け継いだ「敗戦コンプレックス」をアンビバレントな欧米に対する憧れとともに醸成し、劣等感から築き上げてきた経済成長という城が崩れつつある今、それより過去に戻ることで克服したいのだろうか。アイデンティティが国に結びついて離れないのは、封建制度の名残から色濃く影響を受けたせいなのか。国=自分と考えれば、自己責任論を唱える動機も合点が行く。

 今回、演劇を見て、家族の血の薄まりはあっても「夫婦」という関係性は、結局崩れないものなのだということを見た気がした。夫婦にしか出せない空気感。お互いの癖を熟知した信頼感。それが離婚するとやってきた、大騒ぎの発端になった妹夫婦から伝わってきた時、坂口安吾の世界への眼差しを少しだけ感じた気がした。

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