【自粛奇譚1】砂場
下田さんは、4歳の娘を持つ会社員だ。
都内の住宅地にあるマンションに住んでいる。
新型コロナの影響で、3月からリモートワークになったこともあり、いつも夕方になると娘を近所の小さな公園に連れ出している。
「妻はまだ在宅勤務になってないから、僕が連れ出すしかないんです。娘も一日中、家の中にいるとストレスがたまって、うるさくなるので。まあ、僕も少し気分転換になるので」
公園の中を走り回ったり、滑り台で遊んだり、砂場でトンネルを掘ったりして、小一時間くらい遊ばせると、すっきりして夕飯もぐずらずおとなしく食べてくれるそうだ。
新型コロナによる緊急事態で外出自粛になっているが、一日の公園遊びは続けていた。
「娘も『パパ、今日は公園行かないの?』ってしつこいんですよ。それにニュースとか見ると、専門家も健康のために少しの外出は大丈夫みたいなことを言っていましたし。もちろん、僕も娘もマスクをしていますよ」
とはいえ、3月ごろは子供を遊ばせてる親御さんもけっこう見られたものの、最近は自分以外数組程度に減っていたそうだ。遊ばせていると通りがかかりの人が、少し眉をひそめているように見えることもある。
「まあ、子どもが手離れした人とか独身の人からしたら、こんな時期に外で遊ばせるなんて、って感じなんでしょうね。こっちは1時間もたたずに切り上げてるんですが、通行人からしたら一日中遊ばせてるようにも見えるでしょうし」
人の目は多少気にしつつも、子どもや自分のストレスと天秤にかけて、遊びは続けていた。
そんななか、1週間ほど前、一人のおばさんが話しかけてきた。
60歳少しすぎくらいの普段着姿で、白髪の割合が8割くらいになってる、いかにも30年専業主婦やってますといった見た目のおばさんだった。手には小さな買い物袋を持っている。今までに見たことがある顔ではなかった。
「お父さん、えらいわねー、毎日、ここで遊ばせてるでしょ、最近のお父さんは本当に家事にも子育てにも協力的でいいわー」
なんて感じでにこやかに話しかけてきたそうだ。
こちらも娘の相手をしつつ、受け答えをしていると、ちょっと話の内容が変わってきた。
「お父さん、でもね、今、コロナはやってるでしょ、知ってるわよね。あまり、お外で遊ばせないほうがいいんじゃないかしら。ほら、安倍さんもステイホームって言ってるでしょ」
ああ、来てほしくないんだろうなあと察して、
「まあ、毎日、1時間とかそんなもんですし、いつもより道せずに公園と家を行き来してますし、娘が飽きたら来るのもやめますし、周りにご迷惑をおかけしませんので。ほら、除菌のジェルもハンドソープも使ってますんで」
という風に携帯用の除菌ジェルを見せながら受け答えをしたら、おばさんの目の色が突然変わった。
「よく、マンガで心をなくしたキャラクターの目の色が一色になるやつあるじゃないですか、あんな感じに目に力がなくなった感じというか、いきなり生気が抜けたかんじというか、あ、なんか変わった、というのが一瞬でわかったんです」
おばさんはさっきと1オクターブ低くなったような声で、
「あ、ああ、そうなの。でも、おばさんはお嬢ちゃんが心配だわ。ほら、最近は変な人も多いじゃない。何かあってからじゃ怖いと思うのよね」
とはいえ、下田さんの住む地域は、特にそういう変質者が出たり、事件があったりする地域ではないそうだ。
「いちおう、僕も娘の安全は気にしてるから、自治体の安全情報とかはメール取ってますが、変質者の話なんて全然この辺については送られてこないんですよ。そのおばさんが、地元の噂話とかを知ってるのかもしれないけど、僕も5年以上住んでいるけど、そんな話は聞いたことないくらい、のんびりした地域ですから」
まあ、おばさんが自分たちを帰らせたい、できれば来させたくないってのは、ひしひしと伝わったので、仕方なしに娘に後片付けさせて、帰ることにした。軽く会釈をして歩き出そうとすると、おばさんは下田さんたちの背中に向かって
「お嬢ちゃんもお外出られなくて、大変でしょうけど、しばらくはガマンガマンね」
と娘なのか、自分に向けてなのか分からない声色で語りかけた。
まあ、不快というほどでもないが、なんとなく嫌な感じは残っていたので、2,3日は違う公園を使ってみたり、周辺を散歩して気を紛らわせていたが、娘があの公園の遊具が好きというので、一週間もしないうちに元の公園で遊ぶようになっていた。
「きっと、一度やめた時点で、あの公園に行くべきではなかったんですね」
自粛がより一層強まったためか、前よりも少し人気の少ない公園で、ベンチに座って、砂場で穴を掘る娘をぼーっと眺めていたら、ふいに
「あら、久しぶりですね」
と声をかけられた。下田さんは声のほうを振り向いてみた瞬間、自分の血の気がひくのを感じた。
前に話しかけてきたおばさんだった。買い物袋を持っているのも同じだった。ただ、見た瞬間に、あ、ヤバいと思わせる雰囲気が何かあった。目のトーン、声色、話しかけてくる姿勢、全部がちょっとだけおかしかった。帰らないといけない、と下田さんは直感した。
「またお嬢ちゃん、遊んでるのね。お家じゃ我慢できなくなったのかしらーねー」
ええ、困ったもんでとかしどろもどろになりつつ言いながら、少し裏返った声で、娘を呼び、帰り支度をさせた。
おばさんは、買い物袋をガサゴソしながら、
「ちょっといっぱい買っちゃったのよ1本あげるわー」と、まるできゅうりでもくれるかのようなトーンで、何か細長いパッケージに入ったものを渡してきた。
カッターナイフだった。近所の100円ショップのマークが入っていたので、そこの店で買ったのだろう。いっぱい買った? と引っかかりながら、独り言のようにつぶやいたら、おばさんはほらと言って袋の中身を見せてきた。
袋の中には、おそらく100円ショップの在庫全部買ったんじゃないかというくらい、の本数のカッターナイフが入っていた。20本は入っていたんじゃないだろうか。
下田さんはひどく困惑しながら、カッターナイフを手に持ったままと支度のできた娘をそそくさと引っ張りながら帰路についた。
翌日、下田さんはその公園には行かないような道を娘と散歩していたが、たまたま、工事で通行止めをしてるところがあって、帰りに公園に通りかかってしまった。ちょっとだけ公園に行きたいと娘がいうので、仕方なく娘と歩き回っていたら、ふと視界の端に何かが光るのが見えた。
砂場の何かが光ってるように見えた。
近くによって、光るものを見たら、
カッターナイフの刃だった。
背筋が凍った。まるで冷たい水をかけられたようだった。
周りをよく見たら、そこかしこがキラキラしている。よく見たら、細かく折り切ったカッターナイフの刃が砂場一面にばらまかれている。ご丁寧に砂を少しかぶせていて、すぐにはわからないようになっている。
下田さんは、あのおばさんの顔がすぐに頭によぎった。
とはいえ、そのおばさんを問いただすよりも何とかしないとならないと思い、夢中で110番に電話した。
電話の向こうの警察は当初は意味が全く分からないようなトーンだったが、こちらの剣幕に押されたように近所の警官を呼び出してくれた。自転車に乗ってのろのろと来た警官は、砂場の様子を見ると、一気に顔色が変わり、パトカーが何台もくる大騒ぎになった。
いちおう発見者ということで、下田さんは警察で聴取を受けることになった。下田さんがおばさんの話をしたら、警察の方も興味を持って聞いてくれて、100円ショップにも問い合わせの電話をしてくれた。しかし、大量のカッターナイフの購買履歴などはなかったそうだ。
近所にそれらしいおばさんも見当たらないとのことだった。
幸いなのはけが人が誰もいなかったことだろう。まるで下田さんが立ち寄るタイミングを見計らってまかれたかのように、それまで誰も気づかなかったようだ。
下田さんはもう、あの公園には行かないことにした。
「娘が砂場で遊びたいといったら、少し遠くの公園に行くことにしました。あの公園には入りたくないですから」
外出自粛も続いていることもあり、近所の公園で遊んでいる人を見かけることは、あれ以来とんと見かけなくなった。
【モチーフ】