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国旗掲揚・国歌斉唱と、戦後日本の紆余曲折①

※ タイトルの画像は「NHK for school」の画像をGoogle画像を通じて転載
  させていただきました。


ここ数回、国旗掲揚に関する記事を投稿させていただきました。

国旗掲揚と国歌斉唱とはセットであると思うのですが、この国旗掲揚と国歌斉唱は戦後紆余曲折があり、特に教育の現場で顕著だった記憶があります。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

さかのぼれば、まず戦後GHQにおいて、日の丸と軍国主義とを関連付け、
戦争責任を強く日本人に意識させる
ため、その掲揚と国歌斉唱には慎重になるよう日本人を誘導していきました。

これは教育現場に強く反映され、教育現場での国旗掲揚や国歌斉唱はほぼ行われなかったようです。

それと時を同じくして、GHQは日本の国公立、私学の小中高学校の教師による組合、「日本教職員組合」いわゆる日教組を作るよう命令しました。

教育の現場において、国家からの統制に反発し、国家と国民とを切り離し、
分断するといった考え方を日本人に植え付けていき、二度とアメリカに対抗するような力を持たせないようにする
というアメリカの意向だったと思います。

それは先の大戦で多くの犠牲者を出した日本にとって、ある意味正しいことではあるものの、やはり行き過ぎてしまえば害も多くなっていったのではないでしょうか。

しかし、1950年代後半から1960年にかけて状況に変化が訪れませす。

それは、米ソを中心とする冷戦が鮮明になり、そのなかでアメリカは日本をソ連に対する盾にすることにして、日本を「反共産」の先鋒として位置づけます。

このころから、教育現場において国旗掲揚と国歌斉唱を重視する動きが強くなっていきましたが、しかし抵抗も少なくなかったようです。

やがてアメリカの戦略に沿って、1960年に「日米安保条約」が日本につきつけられます。

これに対して日本人のなかに反発が生じ、政治家、労働者、学生、庶民に至る大きな反日米安保のいわゆる「安保闘争」が起こりました。

60年安保闘争 国会議事堂前デモ


しかしこの安保闘争は、与党の会期延長強行採決後、野党が抗議のため議事堂を退出した直後に与党だけによって条約締結が採決され成立に至り、さらに岸内閣が退陣して池田勇人内閣が成立したことによって収束していきます。

会期延長の強行採決

そしてその10年後、1970年にこの「日米安保条約」が自動延長するにあたり、その前の1960年代後半から国民のなかで再び反発が起こり、その時は
学生を中心とした学生闘争に発展
していきました。いわゆる1970年安保です。

このときの学生運動は、共産主義を掲げる全共闘や新左翼などがおのおの組織を作り、セクト化して、「日米安保更新反対」のみならず、ベトナム戦争反対、成田空港建設反対、さらには共産革命、国家転覆といったイデオロギーを先鋭化させ、主張する内容の違いや主導権争いなどから、セクト間におけるゲバルト(暴力)に発展していきました。
このゲバルトは凄惨な結果をもたらすものもあり、国民からの支持を急速に失っていきました

大きなうねりとなった学生運動も、安田講堂事件に象徴されるように、圧倒的な公権力のまえにねじ伏せられ収束していきます。

それと時をおなじくして顕著になっていったのが、日本の高度成長時代です。

日本の経済が右肩上がりに成長し、それにあわせて国民の所得も右肩上がりに増え、多くの企業が多くの学生を働き手として雇っていきました。

国民の多くが、もはやイデオロギーよりも生活の豊かさを享受することに関心を移すことは、当然と言えば当然だと思います。

この頃にヒットした曲で、『「いちご白書」をもういちど』というものがあります。

CBSソニー 『「いちご白書」をもういちど』 画像を転載させていただきました


その歌詞の中に


『ぼくは無精ヒゲと髪を伸ばして
学生集会にもときどき出かけた
就職が決まって髪を切ってきたとき
もう若くはないさと
君に言い訳したね』

 (CBSソニー 荒井由実・作詞作曲より引用させていただきました)


という一節があります。この一節はまさにその当時の学生を言い表しているのだと思います。

この戦後から安保闘争における一連の流れによって、国民の中に多くの政治的無関心層、いわゆる「ノンポリ」が生まれたように思います。

終戦直前、それまで正しいと信じられていた日本人の在り方が、敗戦により一転して、学校の教科書も黒い墨で塗りつぶされる。それまで国のために尽くせと教えられてきたにも関わらず、敗戦後は同じ教師からいままでの教えは間違っており反省すべきだと教えられる。

結局、正しいと思っていることなど、一夜にしてひっくり返ってしまうのだと肌身を通じて感じた世代の多くが、政治的無関心になっていったのではないでしょうか。

さらに安保闘争をとおして、日本のために闘った国民も、最後は国家権力の前には膝を屈せざるを得なかった。結局、長いものには巻かれるしかないのだといった諦観をもった人も少なくなかったと思います。

その安保闘争の戦士たちは、ヘルメットと角材を捨てて、髪を切りスーツに身を固めて、大企業に就職していきました。そして彼らがその後のバブル狂乱の主役になっていきます。


続きます。ここまで読んでいただきありがとうございます。✋


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