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人が無い悪をつくり出す

人が思う善悪とは善と悪は別々のものであるという前提で考えられています。
そのため善と悪は固定されたものとなり、常に善は正しく、悪は裁かれるべきものとなります。

前回『悪とは何か』で悪は本来ないものだと書きました。
ないのになぜ現れるのでしょうか?
ないはずの悪を人が勝手につくり出すからです。

師匠から善と悪は一つのものの向きの違いに過ぎないと教わりました。
故に悪を裁けば、善をも裁き、一切を裁くことになります。
裁くこと自体が悪を生み出しているんです。

物事は常に弥栄しており、より良くなっています。
昨日、良いと思った事でも数日後にはさらに良い事が生まれ、最初に良いと思ったことが悪的な事になってしまいます。
また悪と思っていた事が、後に善であったと気付くこともあります。

人が思う善悪とはこのように、ものの見方によって変わってしまうものです。
条件により善悪が変わってしまうものをああだ、こうだと決めつけることにどんな意味があるでしょうか?

また内側が外側に現れるのが道理であります。
内側が外側に現れるとは、人々の心が世界をつくり出しているという意味です。

原因となるものが内側にある限り、外側に現れ続けます。
裁く心がある限り、裁かれるべき悪を生み出し続け、多くの人が行うほど世界により強大な悪を生み出し続けるわけです。

イエスは『汝、裁くなかれ』と言いました。

仏教では憎む、嫌う、裁くことを三悪と言います。

私の師匠は『嫌うことをやめなさい』と教えてくれました。

ひたすらそれを実行し続ければいいんです。
日月神示にはこう書かれています。

【空の巻 8帖】
悪の世が廻りて来た時には、悪の御用する身魂をつくりておかねば、善では動きとれんのざぞ、悪も元をただせば善であるぞ、(その働きの御用が悪であるぞ、)ご苦労の御役であるから、悪憎むでないぞ、憎むと善でなくなるぞ、天地濁りて来るぞ。

【扶桑之巻 10帖】
赤丹の頬にきこしめしませ御酒たてまつる。
何事が起こって来てもまず喜こんで迎えねばならんぞ、近づいてくるのは呼び寄せたからぢゃ、こんな嫌な、汚いものはごめんぢゃと申す人民もあるなれど、それは皆己の心の写しでないか。
内に無いものが外から近寄る道理ないのぢゃ、どんなものでも、喜んで迎えるとよろこびとなる結構な仕組、よく会得せよ。
何事も一段ずつ、一歩ずつぢゃ、一足飛びは大怪我のもと。

【扶桑之巻 13帖】
称言太祝詞(たたえごとふとのりと)こと今ぞ高らかに。
木でも草でも皆、中から大きくなるのざと申してあろう、付け焼刃や膏薬貼りで大きくなるのではないぞ、三千年に一度という、またとない結構な時がめぐりて来ているのであるぞ、為せば為るぞ、難しいこと申しているのではない、自分の中の自分を掃除して自分の外の自分を洗濯して磨けと申しているのぞ、磨けば神と同列のミタマぞ、釈迦ぞ、キリストぞと申してあろう、内にあるものを磨けば外から響くもの、磨かれた穢れのないものとなるのぢゃ、中の自分を掃除しないで居るといつまでたっても、岩戸が開けていても岩戸は開けん。

【星座之巻 25帖】
歓喜に裁きのないごとく、神には裁きなし。
裁き説く宗教はいよいよ骨なしフニャフニャ腰となるぞ、戒律や裁きは低い段階、過去の部分的一面に過ぎん、裁きを説くのは自分で自分を裁いていること、人民に罪なし。

【龍音之巻 5帖】
迷信であってもそれを信じる人が多くなれば、信ずる想念によって実体化し、有力な霊界の一部をつくり出すことがあるから気つけておくぞ。
無きはずのものを生み出し、それがまた地上界に反映してくるのであるから心して下されよ。

【龍音之巻 17帖】
悪い企て、悪い行為ぢゃとて、直ちに決めつけてはならん、やんわりともちかけて善(よ)きに導かねばならんぞ。
悪を嫌う心があってはならん、悪抱き参らせと申してあろうがな。
邪道的要求を容れて一時的に病気を治すと、それに倍してブリ返すぞ、この呼吸大切。