悪の御用
人には良い、悪いと認識する分別意識があります。
これがあるから反省し、悔い改めることが出来ます。
反省し、悔い改めることは心の浄化作用と言われ、神心へと繋がる道であります。
この道を行くためにはどうしても避けてはならないものがあります。
それが個人の欲望です。
個人の欲望は追求すればするほど、個人の立場以外を無視することになり、全体の調和を乱します。
結果として思い通りにはならず、駄々をこねたり、嫌なことから逃げる羽目になるわけです。
また個人の欲望は醜く、まともに向き合いたいものではありません。
だから目をそらしたり、綺麗に見える言葉や行動で覆い隠そうとするんです。
ですが個人の立場で生きている限り、あり続けるものだから個人の欲望を裁いたり、嫌ったりしても意味はないんです。
日月神示では欲の浄化という言葉があります。
人は個人の欲望(エゴ)を悪的ものと見ますが、その悪を抱き参らせることが欲の浄化で、師匠が言う『それとともにあって消える』も同じ意味だと私は感じています。
実際に私はそれとともにあり続けて消すことが出来ました。
だから確信をもってこれを書いているわけです。
悪を抱き参らせることが神心への、悟りへの、歓喜への道となっているから悪も御用の悪としてあるんです。
苦しみや悩み、行き詰まりを感じている時ほどチャンスです。
そんな時ほどエゴと向き合いやすい、気づきやすい状態になっているからです。
向き合い、それとともにあり続けることです。
神は人を歓喜へ導こうと、あらゆる手を使ってこのような機会を与えます。故に師匠が口癖のように言っていた『一切に感謝』となるわけです。
以下は日月神示の一文と師匠の教えです。
【春の巻 9帖】
人民には分別与えてあるから反省できるのであるぞ。
反省あるから進展するのであるぞ。
放っておいても、要らんものは無くなり、要るものは栄えるのであるが、人民の努力によっては、よりよくなるのぢゃ。
省みねば生まれた時より悪くなると申してあろうが。
欲、浄化して喜びとせよ。
喜び何からでも生まれるぞ。
広い世界に住めば広く、深い世界に住めば深く向上する。
物の世界から霊の世界へ、無限の世界へ入るから無限の生命が与えられるのぢゃ。
無限の喜び得ること出来るのぢゃ。
無限世界とは物と霊との大調和した限りなき、光の世界ぞ。
真理を知ることが、無限を得ること。
まことの神をつかむことぞ。
よいものつくるには大き手数かかるのぢゃ。
懐手でいては出来ん。
手出せ、足出せよ。
【春の巻 10帖】
同じこと繰り返しているように、人民には、世界が見えるであろうなれど、一段ずつ進んでいるのであるぞ。
木でも草でも同様ぞ。
前の春と今年の春とは、同じであって違って居ろうがな。
行き詰まりがありがたいのぢゃ。
進んでいるからこそ、行き当たり行き詰まるのぢゃ。
省みる時与えられるのぢゃ。
悟りの時与えられるのぢゃ。
ものは、放すからこそ掴めるのぢゃ。
固く握って戸閉めていてはならんのう。
扉あけておけと申してあろうが。
着物脱いで裸体となることつらいであろうなれど、脱がねば新しい着物きられんぞ。
裸になってぶつかれよ。
神様も裸になってそなたを抱いて下さるぞよ。
重い石乗せたタクアンはうまいのであるぞ。
【師匠の教え】
文殊菩薩が尋ねた
『死の恐れがある私はどうやって安心したら良いのですか?』
維摩は答えた
『仏の偉大な力に安心すべきだ』
文殊菩薩は尋ねた
『仏の偉大な力とは何ですか?』
維摩は答えた
『一切の生とし生けるものが平等であることが仏の偉大な力だ』
文殊菩薩は尋ねた
『一切の生きとし生けるものが平等とは何ですか?』
維摩は答えた
『仏は一切の生きとし生けるものを成仏させようとしているから、仏の手足となって一切の生きとし生けるものを成仏させる為に働いて安心すべきだ』
死の恐怖があり、安心出来ないとの質問に対して、維摩は仏は一切の生きとし生けるものどもを成仏させるから安心して、それとともに働きなさいと言う回答をしたわけです。
あと大安心して初めて平等が認識出来ます。
大乗は行動が先、認識が後です。
死の恐れを有するものは神か仏をまず信じてみればよい。
良くしかならない、前にしか進まないと信じただけで何もかもが許せる様になります。
これを言うと、なぜ良くしかならないと言えるのだと言われます。
私はこう考えられない人が可哀相です。
こんなに全てが楽になるのに。
わざわざ苦しい考え方を人はしたがります。
今回のまとめで絶対に忘れないでほしいことを書きます。
悟るまでは誰もが問題を抱えています。
問題を抱えていない人などいないのです。
理解はイコール悟りで牛に乗る(十牛図)はそのまま悟りです。
純粋もイコール悟りです。
平等もイコールる悟りで、平和も悟りです。
慢心がないもイコール悟りです。
これに誤解があると私の言葉が余計に気になります。
これは法であり、法とは不変です。
永遠に変わることなく誰にでも当てはまります。
今悟ってなければ問題があって当然なのです。
私は今すぐに問題をなくせとは言いません。
そんなことは出来はしないのです。
だから気づいていればよいのです。