見出し画像

改心とは自分と自分の和合

日月神示では改心が大事だと言われています。
 
改心とは文字通り、心を改めることですが人というのは自分が正しいという前提で生きているため、自らの生き方を省みることはありません。
 
なぜかと言うと「自分は正しい」としておく方が都合がいいからです。
 
皆さんも承知のように人間の本性、本心というのは褒められたものではありません。
 
まともに直視すると恥ずかしい思いや惨めな思い、自己嫌悪、罪悪感などで苦しんでしまうかもしれません。
 
またそれを正すとなると、気が遠くなるような努力をしなくてはなりません。
 
それは耐え難く、何としても避けねばなりません。
 
そこで都合の良い言い訳を捜しまわったり、臭い物に蓋をしたり、現実から目を背けるんです。
 
苦しいことや辛いことから逃げるのは恥ずかしいことでも、悪いことでもありません。
 
人間なら当然の行為ゆえ、裁いてはいけません。
 
裁いてはいけませんが、この現実逃避を続けている限り悪くなることはあっても、良くなることはありません。
 
これらと向き合うことが改心の第一歩です。
 
修行が難行、苦行と言われるのは最初はどうしても苦しい思いをするからです。
 
腹黒い自分、無気力な自分、怠ける自分、嫉妬深い自分、弱い自分、偽り騙す自分、狂暴な自分など。
 
いろんな自分を見つけることが出来ると思います。
 
それらの自分を否定する必要も、変える必要もありません。
 
するべきはただ抱き参らせることです。
 
何度も何度も気づいた時に抱き参らせることです。
 
私の師匠の教えでは『それとともにあること』と言います。
 
これが日月神示が言う自分と自分の和合だと私は感じております。
 
実際に私はそれをひたすら続けることで改心の実感があったので、こうして皆さんに伝えることが出来ます。
 
自分と自分が和合するとなぜ改心に向かうのかというとエゴが消え去っていくからです。
 
分離がエゴの原因です。
 
自分とそれ以外のものという立場があると、自分を優先するから争いが起こるんです。
 
自分と他人という分離だけでなく、都合の良い自分と都合の悪い自分の分離でも同じです。
 
身体の左側が自分で、右側は自分でないという立場で生きれば身体全体が異常をきたすのは誰もが知るところです。
 
心も同じで、自分の内側で争いが起これば異常にしかなりません。
 
和合して初めて調和が生まれるんです。
 
調和が人の自然な姿であり、世界の自然な姿なんです。
 
まずは自分と自分の和合から行って下さい。
 
それが出来るようになれば他のもの一切と和合できるようになってきます。
 
以下は日月神示の一文です。
 
 
日月神示
【白銀の巻 1帖】
陰陽二元でないぞ。
三元ぞ。三つであるぞ。
・なくてはならん。
・にも隠れた・と現れた・とがあるぞ。
このことまず心得て下されよ。
そなたたちは父と母と二人から生まれ出たのか。
そうではあるまいがな。三人から生まれ出ていることわかるであろうがな。
どの世界にも人が住んでいるのであるぞ。
⦿(かみ)の中に⦿があり、その中にまた⦿があり、限りないのざと知らせてあろうが。
そなたたちの中にまた人がいて限りないのぢゃ。
この方人民の中にいると知らしてあろうがな。
そなたたちも八人、十人の人によって生きているのぞ。
また十二人でもあるぞ。
守護神と申すのは心のそなたたちのことであるが、だんだん変わるのであるぞ。
自分と自分と和合せよと申すのは、八人十人のそなたたちが和合することぞ。
それを改心と申すのざぞ。
和合した姿を善と申すのぢゃ。
今までの宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、肉体をおろそかにしていたが、それが間違いであること合点か。
一切が善いのぢゃということ合点か。
地獄ないこと合点か。
悪抱き参らせよと申してあること、これで合点か。
合点ぢゃナァ。

 
     
【月光の巻 25帖】
自分と自分と和合せよともうしてあるが、肉体の自分と魂の自分との和合出来たら、も一段奥の魂と和合せよ。
さらにまた奥の自分と和合せよ。
一番奥の自分は神であるぞ。
高い心境に入ったら、神を拝む形式は無くともよいぞ。
為すこと、心に浮かぶこと、それ自体が礼拝となるからぞ。
山も自分、川も自分、野も自分、海も自分ぞ。
草木動物悉く自分ぞ、歓喜ぞ。
その自分出来たら天を自分とせよ。
天を自分にするとはムにすることぞ。
〇に化すことぞ。ウとムと組み組みて新しきムとすることぢゃ。
 
 
【月光の巻 38帖】
始めの喜びは食物ぞ。
次は異性ぞ。
いずれも大きな驚きであろうがな。
これは和すことによって起こるのぞ。
融け合うことによって喜びとなるのぢゃ。
よろこびは神ぢゃ。
和さねば苦となるぞ。
かなしみとなるぞ。
まず自分と自分と和合せよと申してあろうが。
そこにこそ神の御働きあるのぢゃ。
ぢゃがこれは外の喜び、肉体のよろこびぞ。
元の喜びは霊の食物を食うことぞ。
その大きな喜び与えてあるのに、何故手を出さんのぢゃ。
その喜び、驚きを何故に求めんのぢゃ。
何故に神示を食べないのか。
見るばかりでは身につかんぞ。
よく噛みしめて味わいて喜びとせんのぢゃ。
喜びが神であるぞ。
次には神との交わりぞ。
交流ぞ。
和ぞ。
そこにはかつて知らざりし驚きと大歓喜が生まれるぞ。
神との結構による絶対の大歓喜あるのぢゃ。
神が霊となり花婿となるのぢゃ。
人民は花嫁となるのぢゃ。
わかるであろうが。
この花婿はいくら年を経ても花嫁を捨てはせぬ。
永遠に続く結びぢゃ。
結魂(けっこん)ぢゃ。
何ものにも比べることの出来ぬ驚きぞ。
よろこびぞ。
花婿どのが手を差し延べているのに、何故に抱かれんのぢゃ。神は理窟ではわからん。
夫婦の交わりは説明出来まいがな。
神がわかっても交わらねば、神と融け合わねば真理はわからん。
何とした結構なことかと人民ビックリする仕組ぞ。
神と交流し結婚した大歓喜は、死を越えた永遠のものぞ。
消えざる火の大歓喜ぞ。
これがマコトの信仰、神は花嫁を求めて御座るぞ。
早う神の懐に抱かれて下されよ。