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奴隷から主人になる

私は長い年月、師匠からいろんな教えを学んでいました。
内容は多種多様で宗教や宗派、人物にとらわれることなく、これはダメというものはありませんでした。
師匠もこれを学びなさいということは一切言いませんでした。

しかし、学んでいると必ず矛盾するものと相対することになります。
正確に言うと矛盾するものではないのですが、人は平面的にしか物事を見れないので矛盾と決めつけてしまうんです。

言葉は物事を伝える大事な手段ですが、物事を制限してしまう性質をもっています。
つまり矛盾しているものは同時に伝えることが出来ないんです。

例えば右と左は同時に伝えることは出来ません。
人に言う時は右か左のどちらかしか伝えられません。
しかし、伝えたい本当の内容は右でもあり左でもあり、また右でもなく左でもないです。

これを言葉にして人に伝える場合、皆さんどうしますか?
先ほども書きましたが、人は平面的にしか物事を見れないので右か左のどちらかしか選択できず、一方が正しくて、一方は正しくないという強固な前提を持っています。
この前提を崩さない限り、学びの入り口にもたどり着けないんです。

かつて私も極端が前提で学んでいましたから、師匠の言うことがさっぱり理解出来ず、よく𠮟られてました。
だから人が教えを理解出来ないのはよくわかります。

結局のところ、教えの目的とは極端というこだわりを捨てることなんです。
新しいことを知るのではないんです。
こだわりを捨てるために、様々な方法を利用するんです。

その昔、最澄が空海に理趣経の書を貸してくれと頼みましたが空海はそれを断りました。
そして最澄に書を読むのではなく、私の所に学びに来なさいと告げたそうです。

最澄は激怒したそうですが、これは空海の言うことが正しかったと今の私なら理解出来ます。
文字という極端で、極端を超越することはほぼ不可能だからです。

般若波羅蜜多心経には究極の智慧が書かれていますが、それで修行を完成させることが出来たのは数えるほどのマスターしかいないという事実がそれを証明しています。

私が師匠から教わった極端を超える方法は『一切に感謝し、一切を喜びなさい』です。
一切は神であり、神は人を喜びに導くために必要なものを与えるから、起こること一切に感謝し、喜びなさいということです。

起こることに意味がないなら、自然界にある様々な法則、秩序、ルールが通用しない無秩序状態になり、因果は成立しなくなります。
故に起こること一切にはちゃんと意味があるんです。
以下は以前、師匠から受けた教えです。


【師匠の教え】
今まで私は所有しない、得ない、進まないと語って来たのに今日は全く正反対の話をしなくてはなりません。
名前と形態があるものには実体がなく、無常であるわけです。
無常だから得ないと言うなら、無常から現れる苦しみを恐れている事を現します。

私が皆さんにお伝えしている人の完成された姿とは、この世界の中で生きて自由自在に振る舞い、得たいものを得て、しかも苦しみがないという人の姿です。
この世のあらゆるものを使いこなし、しかも汚されない。
これが自在です。

欲も恐れず、しかも欲にも汚されない。
実は得ることが悪いのではない。
そこに苦しみが伴うから悪いのです。

この世に神の国を実現する事が悪いわけがない。
我々の欲求とは無から、ハートから現れます。
これを情熱と呼んでもよい。

この欲求が個人の意識下で働くと今の世界が生まれ出る。
この欲求が、情熱が個人を超越した意識下で働くと神の愛として動き出します。

ですからまず個人意識から脱しなくてはなりません。
世界で生きながらあらゆるものを使いこなし、しかも汚されないが理想の姿です。

このような存在は得ても得ていないし、所有しても所有してないし、求めても求めてないのです。
執着すると、こだわると使うものに使われてしまう。
今の人の姿そのものです。

人は体に、心にあらゆるものに使われている奴隷です。
奴隷から主人になるこれが理想です。
理趣経にはこう書かれております。

(理趣経)
男女交合の妙なる恍惚は清浄なる菩薩の境地である。
欲望が矢の飛ぶように速く、激しく働くのも清浄なる菩薩の境地である。
男女の触れ合いも清浄なる菩薩の境地である。
異性を愛し、かたく抱き合うのも清浄なる菩薩の境地である。
男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも清浄なる菩薩の境地である。
欲心を持って異性を見ることも清浄なる菩薩の境地である。
男女交合して悦なる快感を味わうことも清浄なる菩薩の境地である。
男女の愛も清浄なる菩薩の境地である。
自慢の心も清浄なる菩薩の境地である。
ものを飾って喜ぶのも清浄なる菩薩の境地である。
思うにまかせて心が喜ぶことも清浄なる菩薩の境地である。
満ち足りて心が輝くことも清浄なる菩薩の境地である。
身体の楽も清浄なる菩薩の境地である。
目の当たりにする色も清浄なる菩薩の境地である。
耳にするもの音も清浄なる菩薩の境地である。
この世の香りも清浄なる菩薩の境地である。
口にする味も清浄なる菩薩の境地である。

苦しむ心さえなければ自在になるのです。