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物事を停止的に見ない

人は知覚したものに対して常に判断しています。

自らの記憶を使いああだ、こうだと決めつけます。

それ自体は普通のことですが、人は一度決めつけたことを変えようとしません。

故に物事を停止的にしか見れず固定観念、思い込みが出来上がります。

これが執着となり、煩いや苦しみを生み出し続けるんです。

物事は常に変化変転しており、常に同じものなどありません。

その時は正しくても、それが変わらない保証はどこにもありません。

皆さんも生まれた時から価値観、考え方は変わっているはずです。

見た目も同じように変わり続けています。

停止とは結果であり、終わりを意味します。

私たちがあるのは常に過程です。

過程である以上、物事を停止的に見ると判断を誤ることになります。

同時に師匠は『人を見る時にその人の背後に土を見なさい』と教えてくれました。

人は土から生まれ、土に還っていく宿命です。

生前どうであったとしても土は土なんです。

これに関しては全ての人が平等です。

物事を停止的に見ることなく、人を見る時は背後に土を見て一切の執着を断ち切ることです。

以下は師匠の教えです。


【師匠の教え】
人間はあの人はこう見え、この人はこう見えたとお話してます。

それはそれで良い。

ただ忘れないでください。

私の現象として現れている姿は一時も止まっておらず、変化し続けている。

この変化の先には肉体の死があり、肉体は骨と化し、やがて土に返ります。

生まれてから、土に返るまでどこを取って私と言えるだろう。

だから私には今の身体の影に土になった身体が見えております。

私から見ると誰もが土です。

ここに平等がある。

今を停止的に見てお話しすると人には異なる身体があり、一つ間違うと不平等となる。

だが誰もが土なのです。

あるインドの聖者は覚醒状態に至った弟子にまでお金と女には気をつけろと語りました。

女性に言うなら、男とお金には気を付けなさいですね。

変化するものを停止的に見ると執着が現れます。

人が最も執着しやすいのが異性とお金です。

だから物事を停止的に見ないことがとても大事です。

私は全ての出会う人の体は変化の過程にあり、本質が土に見えます。

だから常に無常を感じているのです。

一時も止まらず変化し続けている美しいものを見て美しいと言った時、そこには悲しみを感じているのです。

これが無常です。

慈悲の慈は慈しみであり、慈悲の悲は悲しみです。

無常から慈しみと悲しみが現れるのです。

これは現象の本質は常だからです。

常から無常が現れているのです。

今を見て、ああだこうだと言うことは良いが、その本質を常に見失わないことです。

あの人はこうだと固定的に印象を受け入れてしまうと次に会う時、その人の今を見ることが困難になります。

ここに咲いている綺麗な赤い花を見た時、赤いバラの花だと思ったらそれは記憶のバラの腐った花を見ているのです。

記憶することは良いです。

固定的な記憶にしないことと、常に初めて見るように見ることです。

人を平等に見るにはその人の後ろに土を見なさい。