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憎むこと、嫌うこと、裁くことの意味を知る

人間なら誰しも好き嫌いがあると思います。
 
食べ物や趣味、道具など様々ありますが、これらは選択する自由があります。
 
ですが、人間の好き嫌いとなるとなかなか簡単にはいきません。
 
皆さん方も仕事場や学校、居住地域、その他様々な集まりで人間関係を形成していると思われます。
 
人が多くなるほど多様な方たちが集まるわけで、当然そこには好きになれない方も存在します。
 
その中で好き嫌いで行為することは和を乱し、多くの方に迷惑をかけてしまうため、大人の対応をするというのが一般的ではないでしょうか。
 
和を乱さない、迷惑をかけないという点においてはそれで良いかもしれません。
 
しかし、それで好き嫌いがなくなるわけではありません。
 
正確に言うと『嫌い』は残ったままなんです。
 
嫌いは三悪と言われる『憎むこと』『嫌うこと』『裁くこと』の1つです。
 
なぜそれが悪なのかと言うと人は自らの憎む心に憎まれ、嫌う心に嫌われ、裁く心に裁かれるからです。
 
皆さんはあらゆる物事を自分の記憶で判断しています。
 
と言うより自分の記憶でしか判断できないはずです。
 
つまり皆さん、個々が持っている記憶が世界の全てと言えます。

憎む心、嫌う心、裁く心も皆さんの記憶です。
 
つまり、他者が何をしようが、何を言おうがそれを判断するのは自分の記憶ゆえに責任は全て自分にあるんです。 
 
普段、無意識に判断は行われているため、自身の判断に気づいている人はなかなかいないと思います。
 
せいぜい自分以外のものを憎み、嫌い、裁いているだけと思っているかもしれません。
 
ですが事実は自らの記憶が全てを決めているということです。
 
自らに憎み、嫌い、裁く心があるものは一切を憎み、嫌い、裁きます。
 
故に三悪として戒められているんです。
 
ですが、これは人間なら誰もが持っていて当然です。
 
当然ゆえに、いつまでたっても世界が平和に、幸福にならないんです。
 
私の師匠は『嫌うことをやめなさい』と何度も言っていました。
 
もちろん、すぐにやめられないことは師匠もわかっています。
 
ようは嫌ったり、憎んだり、裁いたりすることの意味を理解しなさいということです。
 
皆さんは全てのものを憎み、嫌い、裁くことにどんな意味があると思いますか?
 
その意味を日々の生活の中で追求することが修行である、と思い私は日々実践しています。
 
答えは生き方に現れてきます。
 
なぜなら『内側が外側に現れる』からです。
 
以下は日月神示の一文です。
 
 
日月神示
【黄金の巻 30帖】
大神の道には正邪ないぞ。
善悪ないぞ。
人の世にうつりて正と見え邪と見えるのぢゃ。
人の道へうつる時は曇りただけのレンズ通すのぢゃ。
レンズ通してもの見ると逆立ちするぞ。
神に善と悪あるように人の心にうつるのぢゃ。
レンズ外せよ。
レンズ外すとは神示読むことぞ。
無き地獄、人が生むぞ。
 
 
【扶桑之巻 10帖】
何事が起こって来てもまず喜こんで迎えねばならんぞ、近づいてくるのは呼び寄せたからぢゃ、こんな嫌な、汚いものはごめんぢゃと申す人民もあるなれど、それは皆己の心の写しでないか。
内に無いものが外から近寄る道理ないのぢゃ、どんなものでも、喜んで迎えるとよろこびとなる結構な仕組、よく会得せよ。
何事も一段ずつ、一歩ずつぢゃ、一足飛びは大怪我のもと。