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甘受と処理
人が改心するためには甘受と処理が必要だと日月神示で言われます。
甘受とは起こったこと、起こること一切を受け入れていく、キリスト教的な委(ゆだ)ねの道です。
処理とは智慧をもって積極的に幻想を打ち破っていく、仏教的な智慧の道です。
こう見ると甘受と処理は相反する別々のものに思えます。
甘受と処理については私の師匠からも学びました。
師匠の教えでは甘受とは一切に満足することです。
処理とは満足からより満足に向かうことです。
こう見ると二つのものは同じ一つのものとして繋がっているのがわかると思います。
繋がっているからこそ、どちらが大事という見解は誤りで、故にどちらも大事なんです。
人は甘受か処理のどちらかに偏る傾向があると言われます。
甘受に偏れば努力が失われます。
処理に偏れば調和を失います。
偏りに気づいていくことが行であり、道であります。
日月神示にはこう書かれています。
【春の巻 16帖】
神まかせがよい人民であるぞ。
この神と認めたら理解して、まかせ切れよ。
太元の神様に惚れ参らせよ。
真の信仰の第一歩ぞ。
雨降らば雨を、風吹けば風をひとまず甘受せよ。
甘受した後、処理して行かなならん。
受け入れずにハネ返すのは大怪我のもと。
何回でも何回でも同じこと繰り返さねばならんことになるぞ。
何か迫り来るのは、何か迫り来るものが、自分の中にあるからぞ。
内にあるから外から迫るのぢゃ。
自分で呼び寄せているのぢゃ。
苦しみの神、因果の神呼んでおいて、不足申している者多いのう。
自分で呼び寄せながら嫌がってハネ返す手あるまいにのう。
同じものでも表からと裏からとでは違うのぢゃ。
同じ目で見ても、違ってうつるのぢゃ。
心得よ。
【春の巻 34帖】
自分は自分の意志で生まれたのではないのぢゃ。
その時、その環境を無視出来ん。
その法則に従わねばならん。
草を拝めば草が神となり、機械拝めば機械が神ぢゃ。
食物拝めば食物が神となる。
心せよ。
神は人民を根本から永遠の意味でよくしようと、マコトの喜び与えようとしているのぢゃ。
局部的、瞬間的に見てわからんこと多いぞ。
おかげは、すぐにはないものと思え。
すぐのおかげは下級霊。
眉に唾せよ、考えよ。
現在の環境を甘受せよと申してあるが、甘受だけでは足らん。
それに感謝せよ。
積極的に感謝し、天地の恩に報じなければならん。
誠の真理を知らぬ人間に神はわからん。
【黄金の巻 88帖】
分け隔てするのは神の心でないと申す人民沢山あるが、世界は一平ぢゃと申して、同じことぢゃ、同じ神の子ぢゃと申しているが、頭は頭、手は手、足は足と申してあろうが。
同じであって同じでないぞ。
悪平等は悪平等ぞ。
世界丸つぶれのたくらみぞ。
この道理よく心得なされよ。
すべてのものをまず感受せよ。
その後に感謝せよ。
感謝すれば弥栄えるぞ。
【黒鉄の巻 2帖】
一切に向かって涙せよ。
懺悔せよ。
一切を受け入れ、一切を感謝せよ。
一切が自分であるぞ。
一切が喜びであるぞ。
【月光の巻 31帖】
一切が自分であるぞということは例えでないぞ。
そなたは、食物は自分でないと思うているが、食べるとすぐ自分となるでないか。
空気も同様、水も同様ぞ。
火も同様、大空もそなたぞ。
山も川も野も海も、植物も動物も同様ぞ。
人間は横の自分ぞ。
神は縦の自分ぞ、自分を見極めねばならん。
自分をおろそかにしてはならん。
一切を受け入れねばならんぞ。
一切に向かって感謝しなければならんと申してあろうが。