全ては与えられたもの
人の体験すること全ては神により与えられているものだと言われます。
故に体験により学ぶことはその人にとって必要なものと言えます。
体験により学んだものが記憶としてあり、記憶は個人性のものだから、記憶を我がものとすることで個人という立場が現れます。
個人という立場が強いほど我善しとなり、エゴ的な生き方になります。
神により与えられたものに感謝も喜びもせず、我がものとすることは神から遠ざかる行為です。
しかし、神は永遠の立場から人の弥栄のためにひたすら与え続けています。
感謝と喜びに生きるものには感謝と喜びを与え、不満や嫌悪に生きるものには不満と嫌悪を与え続けます。
全ては気づきという体験を与えるためです。
なぜ気づきを与えるのでしょうか?
気づきがあるから、改心があります。
改心があるから、より良く(弥栄)があります。
より良くがあるから喜びがあります。
起こること一切は喜びに繋がっているという事実からも、一切は神のものであり、故に神が体験を与えていると感じられないでしょうか?
神が人に必要な体験を与えてくれているという気づきが感謝、喜びを生みます。
一切に感謝し、一切を喜べるほど我善しという人間心は消え去り、個人としてありながら個人にとらわれない生き方が出来るようになります。
個人というとらわれのない者に苦しみ、悲しみ、嫌悪、不満など現れようがありません。
それらは全て個人性に属するからです。
皆さんは知りもしない他人のことで苦しんだり、悲しんだりしないはずです。
自分(個人)のこととして扱っていないからです。
マスター達が個人などない、個人性を捨てろと説くのはこのためです。
以下は日月神示に書かれている一文です。
日月神示
【下つ巻20帖】
⦿(かみ)の世になりたら何事もきちりきちりと面白いように出来て行くぞ。
⦿の世とは⦿の心のままの世ぞ、今でも臣民⦿ごころになりたら、何でも思う通りになるぞ。
臣民近欲なから、心曇りているからわからんのぞ。
【富士の巻 14帖】
臣民にわかるように言うなれば、身も心も⦿のものざから、毎日毎日神から頂いたものと思えばよいのであるぞ、
それぞれの身体をどんなにしたらよいかということわかるであろうが、夜になれば眠った時は⦿にお返ししているのざと思え、それでよくわかるであろうが。
身魂磨くと申すことは、⦿の入れものとして⦿からお預かりしている、⦿の最も尊いとことしてお扱いすることぞ。
【16帖】
⦿の守護と申すものは人民からはちっともわからんのであるぞ、わかるような守護は低い⦿の守護ざぞ、悪神の守護ざぞ、悪⦿の守護でも大将の守護ともなれば人民にはわからんのざぞ、心せよ、どんなことあっても不足申すでないぞ、不足悪ざぞ、皆人民の心からぞとくどう申してあろうがな、人民、キから起こって来たのざぞ、我の難儀、我が作るのざぞ、我恨むよりほかないぞ、人民の心さえ定まったら、この方自(おの)ずから出て手柄立てさすぞ、手柄結構ざぞ。
この世のもの一切⦿のものということまだわからんか、一切取り上げられてから成程なァとわかったのでは遅いから、嫌がられても、くどう同じようなこと申しているのざぞ、人民の苦しみこの方の苦しみざぞ、
人民もこの方も同じものざぞ、言(こと)分けて申しているのざぞ。
【梅の巻 18帖】
自分で自分のしていることわかるまいがな、⦿(かみ)がさしているのざから、人間の頭ではわからん、仕組通りに使われて身魂の掃除の程度に使われて、使い分けられているのぢゃぞ、早う人間心捨ててしもうて⦿の申す通りに従いて下されよ、それがおぬしの得と申すものぢゃぞ、一家の為ぞ、国の為ぞ、世界の民の為ぞ、天地の御為ざぞ。