気づいている者が私
『ノーマインドになりなさい』とグル(導師)達は言います。
思考を停止させなさいと言っているわけですが、人間の思考とは絶えず、湧き出ており止まることを知りません。
皆さんも意識せずとも勝手に思考が現れているのを感じたことがあると思います。
思考は心が動くことによって現れます。
逆に言うと心が動かなければ思考は現れません。
ではなぜ心が勝手に動いているのでしょうか?
心に、思考に、感情に力を与えているからだとグル達は言います。
それらを『私のもの』と見なしていることが力を与えることになります。
ようは心に、思考に、感情に成りきっている状態です。
では私のものとしているなら、自由に制御出来るはずですがどうでしょうか?
出来ているなら心は勝手に動くことなく、一切の問題は現れようがないため、ストレスとは無縁になっていることでしょう。
ですが現実はそうはなっていないはずです。
認識できるもの、客観視できるものの一切は客体です。
客観視できないものが主体です。
心の動きは客観視できる以上、私(自分)にはなり得ないんです。
ですが思い通りにならないものを私と見なし、思い通りにならないと苦しみ、不満を言うのが普通の人間と呼ばれる人達です。
心は記憶にそって動くため、決して思い通りになりません。
しかし、心の動きに、記憶に気づいているものがいないでしょうか?
気づいているものがあるから心の存在を、記憶、思考、感情を知ることが出来るのです。
この気づいている立場が皆さんが本来いるべき所です。
ここには一切の煩わしい思いや、苦しみなど存在することが出来ません。
ここにあるのは静寂であり、歓喜だからです。
ここに安住することで余計な思考は停止し、ノーマインドになるんです。
以下はインドの導師ラジニーシの言葉です。
【ラジニーシの言葉①】
心を鎮めよう、思考を止めようとしなくてもいい。
車が行き交い、人間は安全な歩道にとどまり、ただ見守っているように、人は行き交う思考の目撃者であるべきだ。
私たちは自分の思考ではない。
私たちは目撃者だ、と認識するだけで十分だ。
【ラジニーシの言葉②】
人間は意識だ。
絶えず気づいている意識。
人間は体験者ではない。
知る者にすぎない。
これが現実なのだ。
だが、私たちの心の状態は知る者のそれではない。
体験者のそれだ。
その知る者が体験者であることに変わる時、知ることなく、行為そのものと自己同化してしまう時、離れたところから見守っている見張りではなくなり、その行為への参加者になる時、その時こそ自己同化が起こるときだ。
そうなったら、その人は行為と一体化してしまう。
この自己同化が目覚めを妨げる。
というのも、目覚めているためには、気づいているためには、ある一定の距離が要求されるからだ。
あるスペースが必要だからだ。