慈悲を生み出すには
お釈迦様は慈悲の心を養いなさいと言われました。
慈悲とは字のごとく、慈しみと悲しみの心です。
なぜ慈しみの心だけでなく、悲しみの心が必要なのでしょうか?
人というのは他人の苦しみを自分の苦しみと同じように考えることが出来ないと師匠は言います。
多くの方がそうであるように皆さんも生まれてから今まで、我の立場から物事を見続けてきたのではないでしょうか?
長年の習慣により積み重ねられた我の立場は大変強固です。
だから相手の立場になるのが容易でないことはよくわかります。
しかし相手の立場に立てない者が、相手の気持ちを理解出来るでしょうか?
同じ経験をした者の気持ちがわかるということを皆さんも知っているはずです。
これは同情と呼ばれますが、同じ経験をしなくても相手の立場に立つことが出来れば同情することは出来ます。
この同情が慈しみの心、思いやりの心を生み出すと言われます。
世界の人達が我の立場に執着し続けてきたため、現在のような我善しの世界が現れ続けています。
我善しの世界は奪い合いの世界ゆえに調和はありません。
どこを見渡しても苦しみ、悲しみで溢れかえってないでしょうか?
明日はあなたやあなたの大切な人がそうなる番かもしれません。
我の立場に執着することをやめ、相手の立場に立つ体験を積むことです。
人の苦しみ、悲しみが自分の事になるまで続けることです。
以下は過去にあった私と師匠の問答です。
〖私の発言〗
あるもの一切は一つのものの現れというのはわかります。
でもいざ生活や仕事をする時の私や世界がそう見えない。
つまり理解出来ていないというおかしな話です。
【師匠の回答】
人間なら当然なのです。
それが見えたら悟りなのです。
我々の内側にある何にも依存せず、あるがままに永遠にある者、これが真の人で唯一の実在と言えますが実在であるが為にまた無なのです。
この無があるが為に世界は生まれ維持されています。
この無が自らは何もせず、しかも世界を動かしているのです。
この無を見つけることが出来れば世界は一つのものだと実感できます。
この一つのものの現れが世界だからです。
〖私の発言〗
今日一日、他人を自分と同じように見ることの難しさを痛感していました。
しかし、家族という存在が他者を思いやる気持ちをまざまざと教えてくれていますね。
【師匠の回答】
人は人の苦しみを自分の苦しみに出来ないように作られております。
ですから当然なのです。
自我とは苦しみから自己を守るために生まれたので当然なのです。
嫌な事も忘れるように作られていて、明日は自分が、親族が世界の問題に直面する可能性があるなど考えないように出来ているのです。
ですがこれが問題です。
人の問題を自分のことと思い、世界の問題を解決すれば自分の不安も消え去るわけです。
人のことを解決して行けば自らの家族が心配の少ない世界で生きることが出来るのに人間にはそれが出来ません。
それで代わる代わる世界の犠牲になり続けるのです。
人間には人の苦しみを自分のことと考えることが出来ません。
でも考えなければ自分達も不安な世界を生きなければなりません。
ですから人の苦しみを見るのは自我は嫌うのですが、自分から進んでこの世にどんなに苦しみが多いのかに目を向けていくのです。
これでもかと自分に知らせるのです。
捨てて置けなくなるまで。
人間はこの様にして自分で慈悲の心を生み出さねばなりません。
自分で世界の悲しみを利用し、自分を変えて行くのです。
悟りに至り自然に慈悲が現れるまで。