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[治水神社 + 永平寺 + 造山古墳] 導かれる土地から学ぶ叡智とエネルギーの源

引き寄せられる土地は、百聞は一見に如かずで、訪れてみて、多くのことを学びます。

それは文字列や写真では表せないような風の音や木々や植物を含む、その土地から放たれる土の香り、そしてその土地に根付く精霊であり、御霊との出会いを通して学びます。

先日、岐阜の金山巨石群から三重へ向かって移動している道すがら、治水神社という初めて聞くような神社を地図上で見つけたため、立ち寄ってみることにしました。氏神様かなと思いきや、とても美しく、大きな本殿が立っており、神社の所以を読んでみると、木曽三川の治水工事に尽力された多くの御魂が祀られていました。上述のような情報は資料を読めば習得できることですが、現地で学んだことは、その御霊が結界となり、穢れが入らないように防波堤となっていることです。

私たちが日常に得る情報は、1や2といった最小単位のデータがベースとなり、そのデータに意味を持たせたところで情報となり、その情報に経験値が宿って知恵に変化します。引き寄せられる土地を実際に訪れてみて学ぶことは、この知恵であり、その土地に宿る叡智です。

私はこの知恵を体得したいが故に、様々な土地へ足を運び、その土地の神様や精霊さんとシンクロして、叡智を学んでいます。そしてこの叡智が私のエネルギーであり、私の源になっていることは間違いありません。



治水神社(ちすいじんじゃ) ー 岐阜県海津市海津町油島

宝暦治水とは1753年、宝暦3年、徳川幕府が薩摩藩に対して木曽三川である木曽川、長良川、揖斐川の治水事業を依頼したことが始まりとして、幕府が施工設計と監督を行い、工事の実施とそのための資金調達は藩が行う等、藩にとっては不公平なものであったが、幕命を受けた薩摩藩は家老 平田靱負(ひらたゆきえ)の説得により、藩が生き延びるためにこの工事を引き受ける。
実際には、外様である薩摩藩の勢力を弱めるために行った事業として、幕府は工事に必要な物資の供給を制限したり、草履までも安価で売らないように地元農民に指示する等、意図的に冷遇措置を取ったと言われている。

薩摩より持ってきた石の上に立つ薩摩義士之像

幕府による過酷な条件を乗り越え、薩摩藩は難航を極めた治水工事を完成させたが、膨大な工事費を費やしたことをはじめ、不条理な状況下に対して抗議を行った藩の自害者や赤痢等による病死者等、多くの人命を失う結果となり、藩主に謝罪するために平田靱負は切腹したとされる。

その後、この治水工事により大きな恩恵を受けた美濃や伊勢側の人々が平田靱負を含めた薩摩藩士殉職者の御魂を御祭神として治水神社に祀ったことが建立の起源である。

治水神社
治水神社 拝殿
治水神社 拝殿
治水神社 本殿



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地図を見るとわかりますが、まさに木曽川、長良川と揖斐川が交わる三角地帯に治水神社は創建されており、今もなお、結界としてこの地を守り続けています。

境内にある榊の木から「こっち見て」と聞こえてきたため、じっくりとその姿を眺めてみると、榊の木には多くの松の葉がぶら下がっていることが見えてきました。そして、薩摩義士をはじめ、この土地を安寧へ導いた多くの功労者の皆さんの魂が松の葉に宿り、今もなお、この地を守っていると教えてくれました。

古くより松は、神様が依りつく神聖な木として、天から降臨される神を待つ(松)木であったり、神を祀(松)る木として、お正月には門松を玄関や門に立てて神様をお迎えする木ですが、特に冬でも青々とした葉をつけることから、長寿の象徴としても尊ばれている木です。

榊の木にぶら下がる多くの松の葉を見ながら、平田靱負氏を筆頭に、数えきれないくらいの多くの方々がこの治水事業を成功裏に導くために、諦めることなく、最後まで執念を燃やして、事業をやり遂げた粘り強さと、困っている人々のために貢献しようというあたたかい思いやりのエネルギーが松の葉から出ていました。

桜島溶岩

境内には、多くの溶岩や石が置かれているため、社務所でその謂れを聞いてみると、薩摩より持ってきたそうです。この石たちにも松の葉のように、薩摩義士や功労者の意志の固いエネルギーが宿っており、二度とこの地に水害が起こらないように、結界の役目として鎮座されているようでした。

この地に導かれたのは、そういった功労者の方々を慰霊鎮魂するためかなと、治水神社に巡り合えたこと、そして訪れることができたことに感謝しました。




曹洞宗 吉祥山 永平寺(えいへいじ) ー  福井県吉田郡永平寺町

1244年、道元禅師(どうげんぜんじ)が開祖した曹洞宗の大本山として、雲水(うんすい)と呼ばれる修行僧たちが日々、修行に励む禅道場である。

永平寺
永平寺 入口
永平寺 参道
永平寺 通用門

境内には、仏殿(ぶつでん)、法堂(はっとう)、僧堂(そうどう)、大庫院(だいくいん)、山門(さんもん)、浴司(よくす)、東司(とうす)の中国禅宗に由来する七堂伽藍の建物が建ち並び、伽藍とは僧侶が集まり、修行を行う場所を指す。

仏殿 覚皇宝殿(かくおうほうでん)
七堂伽藍の中心にあり、御本尊様を祀る
法堂
禅師様の説法をはじめ、毎日の朝のお勤めや各種の法要が行われる
僧堂 雲堂
修行僧が日々、坐禅に励む根本道場であり、修行僧には畳一畳分が与えられ、その一畳のスペースで睡眠、坐禅、食事をとる
回廊(内部)
回廊(外部)

曹洞宗は、道元禅師が中国 宋より日本に持ち帰った如浄禅師の教えを正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)にまとめ上げた後、瑩山紹瑾禅師(けいざんじょうきんぜんじ)が全国を行脚して、その教えを求道したことが始まりとされる。

承陽殿(じょうようでん)
曹洞宗の開祖である道元禅師(1200–1253)の真廟

曹洞宗は只管打坐(しかんたざ)といって、ただひたすらに座ることを座禅と説き、座禅は身心脱落(しんしんだつらく)の状態を作り出すとされ、身心脱落とはあらゆる自我や執着といった心の煩悩を捨てることであり、また身体も心の煩悩から切り離す或いは、独立させることであり、それが悟りの姿と説く。

迷いや苦しみを無くそうと意識すればするほど、かえって迷いや苦しみが心を占めてしまい、精神的なストレスが肉体的な疲労や体調不良を引き起こすが、ただひたすら座る只管打坐は自分の内面と身体に目を向け、耳を傾けるため、心と身体の状態を意識して、独立させる身心脱落につながり、ひいては両者のバランスを取ることができるようになる。

体をまっすぐに座禅を組めば、心がその身体の姿に反応するようにまっすぐになり、そういった心と身体を客観的に分けてみることに集中することを座禅を通して学ぶ。

舎利殿(しゃりでん)及び、祠堂殿(しどうでん)
檀信徒の位牌を安置、法要を行う
祠堂殿
祠堂殿
祠堂殿
祠堂殿
祠堂殿
唐門(勅使門 ちょくしもん)
特別な来賓時に用いる正門



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永平寺町へ足をいれた瞬間に、心身についた穢れをとる準備が始まります。身心脱落を脳裏に、呼吸に意識を向け、歩く身体の動きにも意識を向けながら、門を通りぬけてください。


参拝口へは2つの参道があり、一つは木々が茂る参道と、もう一つは永平寺川の横にある参道です。

永平寺川

雪が多く、場合によっては永平寺川の横にある参道は雪かきをしてない場合もありますが、この道には様々な氏神様が祀られていますので是非、橋を渡ってご挨拶をしていただければ幸いです。

永平寺川の参道
祀られている氏神様


永平寺川の参道を滑らないように気を付けながら歩いていると、「こっちこっち」と聞こえるため、辺りを眺めてみましたが、雪景色だけが見えるため、気のせいかなと、歩き出すと再び、「こっちこっち」と声が聞こえるため、足元を見てみると真っ白の雪の中に黒い斑点を見つけました。

凝視をしてみると、雪の上に、1匹の虫がいました。

虫さん曰く、「この地は、個々に自分と向き合う空間を作るために人々が集まってくる場所、神様仏様に気の枯れ(けがれ、穢れ)を取ってもらうのではなく、己が自らの力で気枯れに気が付き、そしてその穢れを祓い取る方法を体現する場所」と伝わってきました。

次の瞬間、伝教大師 最澄の「一隅を照らす」という言葉が心に湧いてきたかと思うと、永平寺で見た回廊がシンクロしました。

道元禅師の「ただひたすらに座る」とは、ただひたすらに内なる自分と向き合うことであり、そして内なる自分は、外の世界にも全て映し出されていると教えてくださっているように思いました。

それは永平寺の回廊が示すように、長い回廊にはチリやホコリは一つも無く、ただひたすらに回廊だけが目の前に映ります。

回廊(内部)

この微塵の汚れがない、澄みわたる回廊は、日々、雲水さんたちにより一つの隅を残すことなく、丁寧に、掃除がされた結果であり、その掃除の結果は雲水さんたちのよどみのない澄みわたる内なる心が回廊へ反映された証です。
そして、最澄が説く、一つの隅まで光を照らすとは、いかなる物事であっても努力を惜しまず一生懸命に取り組む姿であり、道元の座禅をすることで、その姿と一心同体になれるのかなと思いました。


雪解け以降に訪れると、青々とした龍さんに出会えます。参拝者の一人ひとりの顔をみて、その訪れを喜んでおられるため、是非、龍さんにもご挨拶をしていただけると幸いです。





造山古墳(つくりやまこふん) ー  岡山県岡山市北区新庄下

5世紀前半の古墳時代に築造された古墳であり、全国の前方後円墳の中では第4位の大きさとして国の史跡に指定されている。周囲には造山第1号古墳(榊山古墳:さかきやまこふん)、造山第2号古墳、造山第3号古墳、造山第4号古墳、造山第5号古墳(千足古墳:せんぞくこふん)、造山第6号古墳榊山古墳の6基の陪塚(ばいづか)があり、主墳である造山古墳の周囲に従属するように、ほぼ同時期且つ、計画的に築造されている。

前方の円墳からは鏡や砥石、鈴、多量の鉄器等が出土していることより、被葬者は吉備王国の王墓、ないし倭国全体の王墓と推測され、造営当時は日本一の規模であったとされる。

墳丘頂上や周囲には円筒埴輪(えんとうはにわ)や形象埴輪(けいしょうはにわ)が立ち、墳丘の斜面には葺石(ふきいし)が敷き詰められていたことより、当時の吉備地方には、ヤマト王権に対抗する吉備王権が存在してしたのではないかと推測される。

吉備の大王
彫刻家 西平孝史氏作

古墳より発掘された石棺が前方部墳頂に鎮座する荒神社の境内に置かれており、その石質が馬門石と呼ばれる熊本県宇土半島から取れる阿蘇溶結凝灰岩であることより、当時の吉備と九州との間には交流があったとされる。

古墳時代になると近畿地方を中心に九州から東北地方にわたる広域にて前方後円墳が築かれるようになり、これは、各地域の首長ないし大王が同盟関係を持ち、また葬送儀礼の共通化を行うようになったためとされる。

荒神社

戦国時代には豊臣秀吉と戦うために毛利氏が古墳の上に土塁砦を築いた跡が残っており、この時に頂上を平らにしたとされる。



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古墳に埋葬されていた被葬者のエネルギーはすでに昇天している一方、荒神社には今もなお、この地を守る護神が宿っており、その裏手にある祠には邪気や災いが入らないように結界をはるお役目が託されています。

慰霊鎮魂として祠にお線香を焚いていただけると、守護のエネルギーをお返しで頂戴できます。そのお線香の火は荒神様の御神力よりいただくようですので、荒神様へお参りをされた後に、祠にてお線香を焚くと良いです。火の取り扱い・始末にはくれぐれもご注意ください。

荒神社の裏手にある祠



私たちは高次である宇宙へつながればつながるほど、よりパワフルな引き寄せの法則を体現することができ、ひいては物事を動かすために必要なエネルギーを養います。そのエネルギーをつかみ取るためにも、中今(なかいま)を生きることです。中今とは過去を振り返らず、未来へ望みを託すこともなく、今に向き合い、今を全力で生きることです。高次へつながることは容易いことではありませんが、成し遂げた先には必ず、浄土があります。常に中心は私であり、あなたです。

今を大切にお過ごしください。



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