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小説『ファツィオリ』

 飴色の太陽がビルの隙間に沈んで行く。さようなら、と手を振りながら。折角買って貰った靴が痛い。これはそのうち痛く無くなるのだろうか、どうなるのだろうか。エナメルの黒。周りに人がいる時は背筋をしっかり伸ばして歩くけど、誰もいない時は足を引き摺って背中を丸めて這って行く。……あれ、先生からメール。
「蘭(らん)、何処にいるの?」
 あ、いけない、今日はピアノの日だった。
「足が痛くて歩けない」
 ピアノの日を忘れていたことは白状しない。
「いいよ、ゆっくりで。今夜は君と一緒に映画を観る日だから」
 今夜はまた映画の日なんだ。とうとう地下鉄のエスカレーターの上で靴を脱いで、蘭の家までそのまま歩いた。ラッシュアワーの終わり頃で人はいたけど、もうそんなことはどうでもいい。でも足の裏が痛くなるとか、そういうことは無かった。歩道の冷たさが纏わりつくだけ。防音の部屋から、とても微かに先生のファツィオリが聴こえた。ドウダンツツジの咲く垣根に触って立ち止まる。木はまだ若いから、幹も頼りない。
 どうして太陽があんな所に沈んで行ったのだろう? 太陽はその日によって、季節によって、沈む場所や時間が違うんだ、と蘭は結論した。当たり前のことだけど。
 新しい靴を手に持ったまま音を聴く。お金の掛かった壁の厚い防音室でも外に漏れる音があって、漏れない音質と漏れる音質がある。それは結構最近気付いた。もしかしたら、それはファツィオリにだけ起こることなのかも知れない。
 
 急いで着替えて先生の隣に座る。足の裏の埃を落とし制服を脱ぐ。蘭がドアを開けても彼は演奏を止めない。音の尻尾が部屋の外に流れて行く。ドアを開ける時と閉める時。先生にしては遅いテンポのベートーヴェン。楽譜と先生の顔と先生の手を順番に眺める。ピアノソナタ第三十二番。作曲家が亡くなる直前に創られたこの曲は、第二楽章が有名だ。だってリズムが、どう聴いたって百パーセント、ジャズにしか聴こえない。世界中の人が皆、それを訝しがっている。
 ベートーヴェンが生きたのは十八世紀で、ジャズが生まれたのが十九世紀末だとされる。第二楽章はどんなにジャズに縁の無さそうなピアニストが弾いても、やっぱりジャズにしか聴こえない。ベートーヴェンくらいになると、きっと死に際にフリーメイソンに拉致されタイムマシーンに乗せられた。そして未確認飛行物体は、ゆっくり空を回転する。玩具みたいな円盤の中でベートーヴェンはジャズを聴かされた。
 蘭はこのピアノソナタはバレンボイムで聴く。破滅的なリヒテルの気分の時はヒリテルで聞く。ラフマニノフはランランで、時々エゴイストのリシッツァ。チャイコフスキーはクライバーン。ショスタコーヴィチはプレビン。でもショスタコーヴィチを聴くと泣くからあんまり聴かない。こういう好みって子供の時と変わらないもんなんだな。
 曲を弾き終わって、全部で三十分くらいの曲で、まあ途中からだったから、左程長くなかった。だけど今日はテンポが遅かったからもうちょっとで、私は立ち上がって盛んに拍手をする。先生も立ち上がって御辞儀をする。先生の大きくて厚い男らしい手。それでどうやってピアノをコントロールするのか、蘭にはいつまでも謎だ。
「ファツィオリの唯一の欠点は、どんな下手糞な奴が弾いても上手く聴こえるところだな」
 いつも言っていることをまた繰り返しながら、二人でリビングにある大きなスクリーンのテレビの前に座る。御父さんは何処に行ったのか知らないけど、帰っていない。蘭の御父さんはピアノを習わせるのは情操教育だからピアノの技術とは関係無い、と先生に話している。だからと言っていつも先生ばっかピアノを弾いて。私は先生が家に来るのは絶対ファツィオリを弾きたいだけだと思う。
 ファツィオリは有名なコンサートホールや有名な音楽学校にしか置いてなくて、個人で所有するものは少なくて、そもそも個人で買えるような値段のピアノではない。しかし調べたらイタリアのファツィオリ社は意外と新しいもんで、一九八一年にできた。蘭の家にはファツィオリの他にスタインウェイ・アンド・サンズも置いてある。二台のグランドピアノ。先生と一緒に合奏ができる。
 
 先生の手にリモコンが握られる。先生の情操教育は本当に蘭の為になっているのだろうか? 変な映画ばっかり観せられる。この間は新しめの『ゴジラ』映画だった。観終わって、先生は「ゴジラの背中に漂うあの哀愁を理解できないと、シューマンは弾けない」と語った。そして続けた。
「あの東京全体を破壊しなければいけないという使命を負った、哀しみと絶望感……」
 そうして涙をハンカチで拭った。綺麗にアイロンのかかった男物のハンカチ。先生に同居人がいるのか、とかそういうことは聞いたことがない。ゴジラってただの怪獣じゃなかったんだな。
 今夜観る映画は英語で、字幕も英語だから、分かるところと分からないところがあった。でもまあ大まかなストーリーは画面を観ていれば分かる。それはフィクションで飾られたドキュメンタリーで、先生が映画の前にストーリーをちょっとだけ説明してくれた。
「ロバート・ストラウドという凶暴な男は、大した理由も無いのに殺人を繰り返して無期懲役になった。診断はIQ一十二のサイコパス。人生の殆どを牢屋の中で暮らした」
 ストラウドが亡くなったのは一九六三年、その映画が創られたのは一九六二年。まだストラウドは存命していたけど、本人が映画を観ることは無かった。映画はモノクロで主役はバート・ランカスター。蘭は俳優の名前だけは知っていた。それは先生にいつもこういう古い映画を観せられるから。ガタイのいいところは先生に似ている。先生はショパンとか、今にも死にそうな肺炎病みのクラシックのアーティストとは全然違っている。プロフェッショナル・レスラーみたいだ。特に肩と胸の厚みが凄い。
 静かに映画が始まった。バート・ランカスターの方が先生よりもうちょっと男前だ。ストラウドは刑務所でも問題児で、とうとう独房に入れらて、外との接触も無くなり、なにもすることがない。高い塀に囲まれた屋外の運動場で身体を動かす。その夜、運動場をうろうろ歩き回っていた時、いきなり大嵐になる。唸る風と雨の中に、なんだかピーピー鳴く声がする。なんだろうと思って暗闇の中を探すと、一羽のずぶ濡れの小鳥の雛が懸命に鳴いている。木が折れて巣に入ったまま地に落ちたのだ。彼は雀の雛を手で掬い、懸命に育てた結果、雛は立派な成鳥となる。
 ストラウドは鳥類に興味を持ようになる。外部から黄色いカナリアの差し入れを受ける。彼等はたまたまオスとメスでストラウドは生まれた五個の卵を毎日見詰める。ある日、最初の一個が孵る。卵から出るのは意外と労力で時間も掛かる。その映画は勇敢にも丸二分間、孵化の様子を映す。科学映画じゃないのに。とうとう雛が卵の殻から出て、もぞもぞ動き出した瞬間、ストラウドは初めて人生に興味を持った。その時のバート・ランカスター表情が凄い。偉い俳優って表情一つで人々を感動させることができるんだな。
 蘭はそこら辺から涙を落とし始めて、ぽとぽとなかなか止まらない。その内、独房のカナリアは三百匹を超える。ストラウドは鳥類に関する医学的大発見をし、多くの病鳥を助け、世界で賞賛を受ける。でもストラウドが終身刑で収監中なのは、殆どの人が知らなかった。
 
 ストラウドが番のカナリアを貰った時、そいつらは独房の中で勝手に自由に飛んでいた。ストラウドは監獄の中で手に入る少ない材料で立派な鳥籠を作った。看守から貰った木の椅子や、やすり替わりに使う硝子の瓶等で製作し、七カ月掛かった。蘭に鳥籠を作りたいという奇妙なアイディアが何処からか降りて来た。先生に笑われた。
「なんでそうなるの? カナリアを飼いたくなったの?」
「そうじゃない。鳥籠を作りたいだけ」
 蘭は木工の基礎を学ぼうとした。しかし何度ビスを打っても木が割れてしまう。去年蘭の家が改装された時にお世話になった大工さんに聞いてみた。ビスを木に打ち込む前に、ビスより少し細い穴を開ける。それが上手くできるようになって、一丁前の鳥籠が出来上がる。実は大工さんに大分手伝って貰ったけど、まあそれはいいとして。木枠を作って金網を貼り、出入り口を取り付け、止まり木を掛けた。
 ある日、父に呼ばれて蘭はリビングに行った。父は蘭の作った鳥籠に紙製の小さな箱を入れた。父が箱を開けると中から白っぽい小鳥が飛び出した。その時は先生が父と一緒だった。先生は困惑する蘭に笑った。先生は蘭のピアノの先生なのに、ピアノの日じゃない時も遊びに来て、父と晩酌を共にした。先生の感想はこうだった。
「鳥が入ると、鳥籠がもっと鳥籠っぽく見えるね」
 小鳥は最初はばたばた飛び回っていたけど、次第に籠に慣れて、止まり木を上手に歩き、餌をついばみ始めた。その夜の内に蘭に歌を披露してくれた。身体や首を左右に動かして、からくり人形みたいに。酔った先生に聞かれる。
「そういう風に歌うのは男の子だからだよ。名前はどうするの?」
「ストラウド」
「ストラウドは苗字だよ。名前はロバート」
「でもいい。ストラウドで」
 宴もたけなわになった時、小鳥のストラウドは眠そうに目を閉じた。蘭は先生と父がどうやって知り合ったのか聞いたことがない。蘭は四才の時からピアノを弾いている。先生が来るようになったのは蘭が小学校の三年くらいになってからだ。
 その内、蘭は先生が家に通って来るのは、先生がゲイで父のことが好きだから、と考える様になった。証拠はないけど。有名なピアニストでゲイじゃない人はあんまりいない。リヒテル、ヴァン・クライバーン、ホロヴィッツ。そもそもチャイコフスキーだって立派なゲイだった。
 小鳥のストラウドのことを調べた。ジュウシマツで、ジュウシマツにしては羽が天使みたいに白い。寂しがり屋で独りだけで飼う鳥じゃないと書いてある。でもストラウドは独りでいても平気な顔をしている。
 その夜、先生はファツィオリの防音室でいつまでも弾いていた。酔っ払っている時は普通シューマンだった。先生のシューマンのリズムの揺れが好きだった。やっぱりファツィオリの音質が防音室から漏れるのと漏れないのがあった。蘭は漏れる音を聴きながら、漏れない音を想像しながら、ベッドで目を閉じた。
 
 先生のゴルトベルク変奏曲が聴こえる。バレンボイムくらい遅いテンポで。防音室のドアが開いているんだ。今まで寝ていた夜が突然起きて来た。
 蘭は階段をこっそり下りる。窓の外はまだ暗い。ゴルトベルクは次第に右手だけになっていく。防音室を覗く。先生の左手の肘はファツィオリの上にある。先生のバッハは殆ど聴いたことがない。ノスタルジックな曲。先生、と驚かせない様に小さな声で呼んだら、一度蘭を死人の顔で振り向いて、また鍵盤に戻った。テンポが更に遅くなる。
 蘭がリビングを通り過ぎた時、ストラウドの声がした。歌うようにではなく、短くチッチッと鋭く鳴いている。なぜこんなに早くリビングの電気が点いているのだろう? ストラウドは、蘭の作った鳥籠の止まり木を飛びながら、躍る様に行ったり来たりしていた。冷たい廊下の床を素足で歩く。靴を脱いでエスカレーターに乗った感触を思い出す。父の寝室の細く開いたドアからも灯が漏れている。
 父はベッドの上に仰向けにいて、布団は掛けてなくて、胸の辺りから流れる血がマットレスに染み込んでいった。ベッドサイドのテーブルに大きな薬の瓶が倒れている。父は怖くないのに、死につつある父は恐怖だった。テーブルにあった父の携帯で救急車を呼ぼうとした。しかし、言葉が出て来ない。あの、あの、を繰り返す。そうしたら、こう告げられた。
「僕達には貴女の位置情報が分かるから、直ぐそちらへ向かいます」
 その瞬間の蘭は何故だか血を沢山流して死んだ三島由紀夫のことを思い出していた。三島が切腹して、後ろから介錯されて首を落とされた時、沢山の血が流れた。でも絨毯が赤かったから、余り血は見えなくて、でも目撃者が絨毯の上を歩くと、靴がじゅくじゅくと血に沈んだ。そんなことを習ったのも先生の情操教育だった。
 動かない父の顔に近付くと、息をしているのが分かった。薬の瓶には見覚えがあった。睡眠薬の一種で、父が長い間依存してた。以前は「眠れない、眠れない」とか、「夕べも一睡もできなかった」とか、愚痴っていたのに、最近はそれが無くなって、蘭は父が既に回復していると信じていた。睡眠薬は新しく開発されたもので、致死量はないと医者に聞いた。でもアルコールと一緒だと危ないと言われた。瓶を起こしてみた。三百錠と書いてある。テーブルに零れているのは、たった二十錠くらいだ。
 蘭は止血のやり方を知らない。ファツィオリの部屋に走った。先生に父を助ける様に頼んだ。先生はまた死人の様な冷たい顔をして蘭を見た。右手はいつまでもゴルトベルクを繰り返す。
 救急車は眠っている住宅街を静かにやって来た。四、五人いるだろうか、救急隊が忙しく動いている。蘭はやっと言葉に出した。
「……父は?」
 一番年かさの隊員が力強く答えた。
「お父さんは僕達がなんとかする。それが僕達の仕事だから」
 止血と胃の洗浄が行われる。父が先にストレッチャーで乗せられて、蘭も救急車に乗れと言われたけど、足がもつれて歩けない。とうとう床に崩れ落ちた。隊員達に抱えられるように救急車に乗った。発車した途端、大きな音を鳴らしたパトカーと擦れ違った。
 
 蘭の母は蘭が小さい時に亡くなった。死ぬ、という現実を知らない程幼くて、蘭は、寝てないで早く起きて、といつまでも母の身体を揺すった。それ以来家には父と蘭しかいない。蘭達は親戚にも縁がない。時々母がいたらどうなっていただろう、と考えはするけど、不思議と寂しさは感じられない。蘭は神様は信じないけど、亡くなった母だけは天使になって蘭と父の周りに白い羽でぱたぱた飛んでいると信じていた。白い羽のストラウド。
 集中治療室が見える所に座った。蘭は独りだったけど、廊下には患者を心配する親族が大勢いて、集中治療室の中を凝視して、そのうちさっきの蘭みたいに息が苦しくなって廊下に倒れる人がいた。
 蘭の身体の震えが止まらない。父の胸から血が流れていたことをどうしても思い出してしまう。看護師さんが毛布をくれた。震える手でそれを受け取った。それから小さなオレンジ色の錠剤をくれた。「これを飲むと緊張が弱まるから」と言われた。
 薬の効果は驚く程で、蘭は一生懸命事態を考えて、誰かに助けて貰おうと決心した。電話をすると、父の大学時代からの親友が来てくれた。その人は夢野さんと言って、ドクターと暫らく廊下で話していた。
 夢野さんは父の血液型が珍しくて、なかなか献血と手術ができない、と蘭に話してくれた。聞いたことがある。父はO型のRhマイナスで、滅多にないから金が無くなったら血を売ればいいな、と冗談を言うのを聞いたことがある。夢野さんは蘭の肩に手を置いて顔を覗き込んだ。
「もう蘭ちゃんも大人だからちゃんと言っておくけど、君の先生が重要参考人として警察の任意の取り調べを受けている」
 血液が届いた時に丁度、窓から薄い日が灰色の雲にまみれて現れた。この間ビルの間に沈んだ飴色の日と同じものにはどうしても思えない。それでも灰色の日は蘭に、おはようの手を振った。ドクターにもう大丈夫だからと言われる前に、先生のエージェントから連絡があった。先生のマネージャーはビジネスに長けていて、先生を有名コンサートピアニストにしてくれたけど、蘭は彼女のことは好きではない。人の心を盗み見る様なところがあるから。彼女の祖父はユダヤ人の美術研究家で、日本に帰化した人物だ。マネージャーは日本で育って日本に住んでいる。蘭は疑い深い声で話した。
「私は先生がどうなったのかなにも知りません。それより貴女はどうしてこのことを知っているんですか?」
「警察から身元の照会が来て……。三日後に都内でコンチェルトがあるのに……」
 蘭はマネージャーに、事件のことは警察に聞いてくれ、私にはもう電話をしないでくれ、と言って電話を切った。自分でも驚く程言い方が冷たくて、この事件で自分が永久に変わってしまったのではないか、と考えると、身体の芯が震えた。強くならなければ。
 警察から電話で伝えられた。蘭からも任意の事情徴収をすること、現場検証にも立ち会うこと、何時でも必ず何処にいるのか警察に連絡することだった。蘭は叫んだ。
「先生に、先生に会わせてください!」
 するとそれまで話していた人ではなく、もっと年上らしい人に替わった。
「君の先生は警察にはいない。病院にいるから会えるようになったら知らせるから」
 言い方が優しくて、蘭は少し安心したけど、病院にいるって、なんで?
 
 蘭は何日も一日中父のベッドの側にいた。時々浅い眠りが来て、ベッドに頭を置いた。ドクターが巡回に来てくれた。身体は大丈夫ですけど、なぜあんなに薬を飲んだのか、身体に傷を付けたのはなぜなのか、調べることは沢山ある、とそんなことを話した。夢野さんは一度帰ったけれど、警察の現場検証の時には蘭と一緒にいてくれた。警察は蘭の行動を順を追って聞いた。何度も何度も同じことを聞かれた。眠っていたらピアノが聴こえたこと。階下に下りたこと。いつも閉まっている防音室のドアが開いていたこと。先生がバッハを弾いていたこと。父が寝ている部屋の灯が点いていたから覗いたこと。
「ベッドに父の血が一杯染み込んでいて、空になった薬の瓶も見えました。父が生きているのは確認できました」
 一行はファツィオリの部屋に移動した。ファツィオリの鍵盤に血で擦った様な染みが付いている。……ゴルトベルクを弾くと血の付いた鍵盤くらいの範囲になる。特に右手で弾いていた部分に血痕が残っていた。バッハの時代、まだピアノは発明されていなくて、作曲と演奏はチェンバロで行われた。だから血の跡の付いた部分は短かった。蘭は何故だかそのことを警察に言わなかった。急に先生のことが思い浮かぶ。父となにかあったのだろうか?
 ファツィオリの部屋を出るとリビングが見えた。蘭の作った鳥籠。底に小さな白いものが落ちている。……身体は既に硬直していて、それなのに首だけはぐったりと垂れ下がっていた。たった数日餌を上げなかったくらいで死ぬなんて、小鳥がそんなにか弱い存在だったなんて。蘭は、「寝てないで早く起きて」と呟きながらいつまでも小鳥の身体を揺すった。警察官の一人が可愛そうだったね、と親切に言ってくれた。
「貴女の父上と先生のご関係は?」
 もう一人の年上の警官が口を挟む。
「後でいいじゃないか。俺達も少し休もう」
 蘭は庭へ出て、植木の間の誰にも踏まれないところにシャベルで穴を掘ってストラウドを埋めた。白い天使の羽が、黒い土の中に消える。父を見付けた時も先生がいなくなった時も泣かなかったのに、死なせてしまったストラウドに申し訳なくて、いつまでも泣けた。
 
 年上の警官が言ってくれた。
「今朝、君の先生に会って来た」
 蘭はその警官が電話で話した、先生が病院にいると教えてくれた人だと気付いた。その人は警察官の制服ではなく、スーツを着ていた。彼は刑事で名前は松島だと教えてくれた。
 蘭は小枝と紐でちっさな十字架を作って、ストラウドの墓に立てた。……これも先生と一緒に観た古い映画。『禁じられた遊び』。戦争で両親を銃殺された小さな女の子がいて、農場に一時的に預けられる。そこには男の子がいて、二人は沢山の動物の死骸を集めてお墓を作って十字架を立てた。禁じられた遊びはどんどんエスカレートしていく。
 私がストラウドの為にいつまでも泣いているので、夢野さんが警官達にこう言ってくれた。
「進と先生の関係なら僕の方がよく知っていますよ。あいつと僕は登山が趣味で、大学も登山部だったんですが、ある時、富山県の立山の頂上に登った時に、そこで会ったんです」
 松島さんが聞いた。
「ピアニストさんがそんな登山をなさるんですね」
「そうじゃなくて、頂上で出会ったのは、先生のお姉さんなんです。向こうは三人の女性で、こちらは男が三人。これからも会おうよ、とかそんな話になって」
 蘭はそんな昔の話を知らないから、夢野さんを今までよりずっと近くに感じた。夢野さんと刑事さんを代わる代わるに見詰めた。
「それで進の家にとんでもなくいいピアノがあるぞ、っていう話になって、それから……」
 
 先生を病院に見舞った時、病室に蘭が蛇の様に嫌っている先生のマネージャーがいた。その蛇の名前は、エスターという。彼女は医者と言い争いの最中だ。
「プロのピアニストがピアノに触れなかったら大変なことになる。リサイタルのチケットも完売だから、どうしても出て貰います」
 エスターは医者にコンサートのチラシを見せた。「柴田葉児(しばたようじ)、ラフマニノフ」。それから一流のコンサートホールとオーケストラの名前。
「彼は鑑定留置の身ですよ。外に出す訳にはいかない」
 私の先生は大きな身体で、子供みたいにベッドの上で膝を抱えて体育座りをしている。先生は彼等の言い争いには全く関心が無いように見えた。ただ、蘭が入って来た時、薄く微笑んでくれた様な気がした。気のせいかも知れない程に薄く。
 医者はもしかしたら先生は失語症になっている可能性がある、と説明してくれた。どの程度の失語症なのか分からない。先生が喋らないのは、喋りたくないからなのか、喋ることができないからなのか、まだ分からない。先生は自分についてのそんな憶測にも興味が無い様で、誰の目も見ていなかった。
 その瞬間、廊下の方から何かが聴こえた。先生も蘭と同じ方角を見る。……ピアノの音。
「ピアノの音がする」
 先生と蘭以外の人には聴こえていない様だ。
 蘭は廊下へ出る。私の先生も付いて来る。蘭は重たい扉を開けて精神科病棟を抜けようと試みる。蘭が外へ出て、先生が後に付いて出ようとすると、当然だけど先生は警備員に止められる。
 聴こえる音質と聴こえない音質がある。蘭は聞こえる音を追い掛けた。エレベーターが開いている。蘭がエレベーターに乗るとドアが閉まる。誰もいないのになぜだろう。ドアが閉まった瞬間にピアノの音が聴こえなくなった。エレベーターは上に行くのかと思ったら、下がって行く。ドアが開いた時にはピアノの音がすっかりしなくなった。きっと弾いていた人が手を止めたのだ。
 
 先生の病室に戻る。そこに先生はいなくて、さっきそこにいた人達もいなくなって、蘭は病棟を歩き回る。先生が見付かった。彼は独りでいて、薄暗い廊下の壁で体育座りをする。蘭は先生の隣に座った。またピアノの音がする。
 夕食の時間らしく、食事を載せた天井に届きそうなカートが近付いて来た。先生と蘭は足を引っ込める。カートを引いているのは、初老の男性だ。蘭はこの人ならきっと知っていると直感して立ち上がる。
「ピアノの音がするんですけど、気のせいかしら……」
「あれね。こんな所からよく聴こえますね。内科の食堂にあるんですよ。誰かが寄付したとかで……。いいものらしいですよ」
 内科の食堂。再度蘭は病棟を出て、内科と書かれた文字を探す。またエレベーターが開く。誰もいないのに何故? 蘭が乗るとやっぱり下へ向かう。二階で自然にドアが開く。まるでピアノに呼ばれているみたいに。ピアノの音の方向を探す。若い子。中学生くらいの男の子。ヘッドフォンをして弾いている。ヘッドフォンから漏れる音や、指の動きからなにを弾いているのか直ぐ分かった。蘭はヘッドフォンをしているのに、何故精神科から聴こえて来たのか、考えてみたけど分からない。蘭は男の子の死角から近付いてヘッドフォンのジャックを外す。途端に音が内科の広い食堂に響き渡る。彼は暫らく気付かない。彼は驚いて演奏を止め、蘭を見た。蘭は彼のヘッドフォンを取り上げる。
「上手なのに」
「……誰にも聴かれたくなかったのに」
 泣きそうな顔。シューマンの「子供の情景」の中で一番有名な曲。蘭は彼の隣に座って彼が止めた所から弾き始める。
「いっつもヘッドフォンしてるから……。凄い、このピアノ。こんな音が出るんですね」
 蘭は記憶を辿ったけど、電子ピアノは一度も弾いたことがない。男の子に音質の変え方を教わる。つまみが沢山あって、確かに高そうなピアノではある。ベートーヴェンのジャズを弾いてみた。内科の患者が集まって来る。第二楽章。終わったところで拍手が起こる。なんだかみんな顔色が悪くて病気みたいだ、って当然か。
 
 先生は精神科病棟を離れられない。彼のドクターが内科となんらかの取引をして、ピアノは精神科の内科より狭い食堂に置かれた。こないだの男の子は弾きたい時にやって来る……。



未完。この小説は続きます。

初出 1/12/2025




小説『ファツィオリ』はネムレヌ参加作品です。


次回ネムレヌ(第63回)について


次回の文芸ネムレヌ、テーマは「冤罪」です。
締切は1月31日まで。文芸に限らずオールジャンルでご参加ください。どなたでも参加できます。参加方法は応募する記事にハッシュタグ「ネムキリスペクト」を付けてください。
皆様からのご応募お待ちしております!


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