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『2、百年経っても読まれる小説の書き方』

私がみんなの小説を読む時、まずここを見る。

最初の四行を読んで、小説が進んでいなかったら、二ページ目の頭の四行を読んでみる。それでも小説が進んでいなかったら、その小説はもう読まない。

最初から最後まで立ち止まって、全く進まない小説を読んだことがある。博士論文を読んでいるみたいだった。全てが「解説」になっていて、されど、それが芸術的であるわけでもなかった。

「小説が進まない」の意味は、最後に私の未発表新作『パトカー』の一部を使ってお話しようと思います。

その次は、意外だと思われるかも知れないけど、私は文末を拾って読んでいく。それは「紋切り型」を探している。紋切り型の数で、何年くらい書いてきた人か大体分かる。

「紋切り型」とは、常套句とも呼ばれ、使い古された当たり前の言葉。もっと個性的で新しい表現をしようよ、ということ。

紋切り型は、文末に現れることが多い。小説投稿サイトを三十分眺めただけでこのくらい出て来る。仰天の紋切り型リストと、私だったらどう書くか? という場面を見てみましょう。

ドキッとした ➡ 心臓が三秒止まった。
面識がある ➡ どこかで会ったな。どこで会った?
何事もなかったように ➡ 人々の目を見ないようにしで僕は進んだ。
遠慮がちに言った ➡ いいのかな? どうかな? こんなこと言って。
震えあがる ➡ 寒くもないし、病気でもないのに、なんで震えてるんだ。
目が釘付けになる ➡ 普段シャイな僕が、彼から目を逸らせない。
途方に暮れる ➡ 世界中が真っ白になって、僕は迷子になる。
張り巡らされた ➡ 犬みたいに檻に入れられて、黒服に囲まれた。
年月が過ぎ去る ➡ 時は過ぎていくんだ。誰にも止められないんだ。
光に包まれる ➡ 強烈なスパークが集まって、目の前で爆発した。
ふと手が止まる ➡ なんであんなことが僕の思考を止まらせる?
鏡を覗く ➡ なにか光ったと思ったら、それは鏡だった。
首を傾げる ➡ あんたには分からない。なんでだよ!
静寂に包まれる ➡ 僕の心まで白く凍っていく。
口を割る ➡ 容疑者が自白したぞ。俺はプロだからな。
帰らぬ人となる ➡ 墓の前に立った。花を買うのも忘れていた。
見知らぬ世界 ➡ この世界は遊園地だ。玩具みたいな観覧車が回る。
不思議な世界 ➡ ジェットコースターがこの世界の交通手段だ。
幕を閉じる ➡ 君がなにをしたって無理なことが世の中にあるんだ。
魅了する ➡ 追い払っても飛び立たない小鳥のように。
身を乗り出す ➡ そうそう、僕はこのチャンスを待ち続けていたのだ。
笑みを浮かべる ➡ そんな風に僕を見ないで。忘れられなくなるから。
吸い寄せられる ➡ あれ、あれ、僕はもう逃げられない。
目を落とす ➡ きっと、どこかに嘘がある。
意気投合する ➡ 手を繋いで一緒にスキップした。
ふと思った ➡ そうじゃないかな、と思ったら、やっぱりそうだった。
修羅場と化す ➡ ゴジラを蹴倒した怪鳥が羽ばたくように。
半信半疑になる ➡ もっとはっきりしてくれ。
闇に包まれる ➡ 三つあった太陽が、一斉に海に沈んだ。
月が輝く ➡ 車の下敷きになった俺。サイドミラーに鋭い光が反射する。
足を踏み入れる ➡ 刺激したら駄目だ。多数の犬の目が睨んでいる。
ちらっと見る ➡ 今、私のこと見てたでしょ。見てねえよ!
寝込む ➡ マジで体調悪いんだよ。馬鹿言ってないでさっさと起きろ!
全く覚えていない ➡ 脳細胞のひとつひとつに聞いたけど。
心の中で叫ぶ ➡ 声に出して叫んでみたい。でもできないんだ。
勝ち誇る ➡ そんなことぐらいで俺に勝ったと思うなよ。
消えてなくなる ➡ 俺のことは死んだと思ってくれ。

紋切り型リストと書き換え

「月が輝く」と書いた人がいたのには仰天した。アントン・チェーホフ(1860-1904)の有名な文学論にこう書いてある。

"Don't tell me the moon is shining; show me the glint of light on broken glass."
「月が輝く」と言うのは駄目なんだよ。割れたガラスに煌めく光を見せるんだよ。

Show, Don't Tell

「言う」のは小説じゃない。「見せる」のが小説なんだよ、ということ。今の世では反論もあるけれども、文学の基本中の基本だから、知っておこう。

書き始めたばかりなのに紋切り型が全くない人もいて、言葉を選ぶセンスがいいんだな、と感心する。それから、紋切り型のカッコいい使い方、というのもあって、それができるようになったらほんとのプロなんだけど、私にはまだトライするチャンスが巡ってこない。


「進まない小説」「紋切り型」と見ていって、次に私が見るのは「会話文」。会話文は物凄く難しい。会話文を見るとその小説家の技量が一発で分かる。「会話文」は小説にしかできない手法。映画にも戯曲にもできない。だから面白くて、美しい。

川端康成の『雪国』から、ノーベル文学賞の会話文を見てみよう。
(著作憲法を理解した上で節度を持って教育目的で引用しています)

駒子は床の上にちょこんと坐ると、一枚しかない座布団を島村にすすめて、 「まあ、真っ赤。」と、鏡を覗いた。 「こんなに酔ってたのかしら?」 そして箪笥の上の方を捜しながら、 「これ、日記。」 「ずいぶんあるんだね。」 その横から千代紙張りの小箱を出すと、色んな煙草がいっぱいつまっていた。

川端康成『雪国』

「これ、日記。」
「ずいぶんあるんだね。」

川端康成『雪国』

この会話がなぜ洗練されているのか考えよう。駒子は以前、島村に日記を書いているんだよ、と話をしていた、という設定。

普通だったらこう書くと思う。

「これ、私が前にあなたに言ってた、私が長い間書き続けている日記よ」
「へえ、これがそうなんだ。僕が思ったよりずいぶん多いね、びっくりしたよ」

自分が喋る時だって、こんなに長々と喋らないと思う。実際自分だったらなんて言うか、それを考えるといい。川端康成の小説はいつまでも「新しい」。私達の小説の方がずっと古臭い。しかも『雪国』は非常に都会的だ。特に会話文が都会的に洗練されている。

この会話文の一番素晴らしいのは、会話をしながらストーリーが進んでいるということ。動詞だけ拾ってみよう。「座る」「すすめる」「覗く」「捜す」「出す」「つまる」。こんなに短い文の、しかも会話文に、六つも動詞がちりばめられている。名人芸としか言い様がない。


では、これから私が最初に言った「進まない小説」とはなんだろう、ということをお話していきたいと思います。私の未発表新作『パトカー』の一部を使ってお話します。

「進まない小説」は小説じゃない。みんなでこのパトカーについて小説を書いてみよう。

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