「反戦デモ」に対する違和感

 以前から反戦デモを始めとする、いわゆる「平和活動」と呼ばれるものに対して違和感を覚えていた。テレビに映る「平和」を訴える人たちの笑顔を、どうしても直視することができない。「自分は平和が嫌いなのだ。」と自分自身を納得させようとも思ったが、どうやらそれだけでもないらしい、と最近気がついた。

 S.フロイトの提唱した精神分析ではいわゆる「神経症」の定義として
 ①ある欲求を満たしたい自分と、その欲求を抑えている自分との間で喧嘩(葛藤)が起きていること自体に気付いていないこと。
 ②その症状によって、実は自分が抑えているはずの欲求が満たされていること
の2点が挙げられる。

 「確認強迫」の人を例に挙げてみよう。元々、真面目で几帳面な人に多く、ある時ガスの元栓を閉め忘れてはいないか、家の鍵を閉めたかどうか等が気になってしまい、何度も繰り返し確認行為を行ってしまう、いわゆる「わかっちゃいるけど、やめられない」病気=強迫性障害と呼ばれる疾患のひとつの表現形である。

 この人を神経症の定義に当てはめると、こんな感じになる。(これはあくまでも一例であり全ての人に当てはまるわけではありません)

 ①で本人が気付いていない欲求とは、「自分は真面目で几帳面である」という元来のアイデンティティとは正反対の「だらしなくありたい」という欲求である。その欲求はその人の中で膨らんできているが抑圧されており、「真面目で几帳面であり続けたい」自分と「だらしなくなりたい」という自分とで喧嘩(葛藤)が起きていることすら気づいていない。

 では②、抑圧されている「だらしなくありたい」という欲求が、症状によって満たされていることになる。それは何か?実は確認行動そのものではなく、「確認行動の結果として、約束の時間に遅れてしまったり、仕事のノルマを達成できなくなってしまうこと」によってなのである。症状そのものは真面目さや几帳面さがより際立ったように映るが、そのようなアイデンティティーは保たれつつ、結果としてその人の隠されている「約束、ノルマを守れないだらしない自分でありたい」欲求も同時に満たされているのである。

 この欲求を意識化させるのは非常に難しい。なにしろ「病気になってでも、受け入れたくない自分の側面」なのだから・・・。時には「死んでも気付きたくない」人もいる。それだけ、自分自身の「影」(認めがたい欲求や感情)を受け入れるということは困難な作業なのである。

 ここで反戦デモの話に戻る。反戦デモで「平和」を声高に唱えている人たちに感じる違和感は、彼らの行動のなかに神経症的な側面を感じとっていたのだと気づいたのである。自らのアイデンティティとしては平和を望み、「戦いたい、争いたい」という欲求は抑圧されている方にとって、「戦争」とは自らの戦いたいという欲求に意識を向けることなく、「戦争を無くすための戦い」という、絶好の「争いの場」を提供してくれるのである。

 結局のところ、戦争が解決するためには、「平和を求める欲求」も「争いを起こしたい欲求」も、どちらも個々の人々の中にあることを受け入れながら、その上でどうするかをあれこれ考えていくしかないのだろう。ひょっとすると「平和な世界」とは「悩むことが許される世界」のことなのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?