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毒家庭に育ち、すべてを諦めた私のはなし①

あいだです。

プロフィールにも簡単に書いてあるけど、簡単に自己紹介。
34歳、独身、普通に会社勤めをしている実家暮らしの女です。
予定では34歳では結婚していて、もしかしたら子どももいて、自分の家庭を作っているとばかり思っていた。
が、現実は違いました。

自分自身のこれまでの人生や想いを忘備録がてら綴ります。
ただの自己満です。


そもそも、普通の環境で育っていない自分が、普通の人生を歩めると思っていたことが間違いでした。

母子家庭で育ち、両親がいる家庭を知らない。
明確には、わずかな年数は両親と妹と暮らしたのだけど、幼稚園くらいのことで、ほぼ記憶がない。
幼稚園の頃は東京で暮らしていたのだけど、どんな理由があったのか知らないが、母の実家がある岡山県へ引っ越した。
恐らく、祖母が亡くなり一人暮らしになった祖父を思って母が実家に戻ったのだろうと思う。
父は東京に残ったので、単身赴任(?)のような、別居生活が始まった。

岡山への引っ越しの日は突然だった。
覚えているのは、誰もいない運動場で私ひとり幼稚園のジャングルジムで遊んでいると、母と担任の先生(この方の名前も顔もはっきり覚えている)がやってきて『さようなら』と挨拶したこと。
私は引っ越しをするなんて知らなくて、東京生活での記憶はそれが最後だと思う。
【しょうちゃん】という、仲良しの女のコがいた。
毎朝、門で待っていてくれた女のコ。
その子に挨拶もできず引っ越したので、あれから30年近く経った今も、元気かなと時折思い出す。

その次にある記憶は、岡山での幼稚園。
またまた誰もいない幼稚園の園庭で、母と先生が話しているのを見た記憶。
その母の実家からすぐの幼稚園に転園をした。
未だ何も説明を受けておらず、登園初日に知らない人たちの前で自己紹介をしろと言われ、人見知りもあったので小声で下の名前だけ言ったらクラスメイトみんなに大笑いされた。
どうしてここにいるのか分からず、すごくすごく恥ずかしかったのを覚えている。

年に一度か二度ほど、父は岡山に来てくれた。
岡山からも東京へ遊びに行くこともあった。
たまに電話で父と話ができた。

相変わらず何故父と一緒に暮らせないのか説明がないまま日々過ぎていく中、小学一年生の夏休みに父が岡山に来たときのこと。
夜寝るとき父が横にいてくれて、どうして一緒に暮らせないの?と泣きながら質問した。
「いつか必ず一緒に暮らせるから」父は間違いなくそういった。

しだいに父が岡山へ来る頻度がさらに減りだした。
電話で話すことも減り、最後に会ったのは小学3年生のとき。
そのくらいになると『離婚』は分からなくても、うまくいってないことくらいは空気で感じた。
父の最後の記憶は、祖父に呼び出され岡山へやってきて、祖父の部屋で母と3人で話をしていた姿。
祖父から「幸せにする言うたんじゃないんか」と言われていた。
部分的にしか覚えてないけど、ふとしたときに思い出してしまう嫌な思い出。

#幸せになるって難しい

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