あいだ

34歳毒親・毒祖父育ち。幼稚園年長さんのころから父と離れて暮らし、年に1度か2度会っていたけど知らない間に両親が離婚。その後父とのコンタクトや離婚の正式な説明なし。母の実家で祖父・妹と暮らす。学生の頃から食事準備や家事手伝い。ここ10年は病気の祖父の生活サポート。私は人生を諦めた

あいだ

34歳毒親・毒祖父育ち。幼稚園年長さんのころから父と離れて暮らし、年に1度か2度会っていたけど知らない間に両親が離婚。その後父とのコンタクトや離婚の正式な説明なし。母の実家で祖父・妹と暮らす。学生の頃から食事準備や家事手伝い。ここ10年は病気の祖父の生活サポート。私は人生を諦めた

最近の記事

毒家庭に育ち、すべてを諦めた私のはなし④

就職をしてからも実家暮らしでした。 まず、その当時家を出るという選択は許されなかった。 母について少し触れておきたます。 恐らく(というか絶対)【毒親】というジャンルの人なのだと思う。 【過保護】【過干渉】【依存】当てはまる言葉がありすぎて困る。 ただ親が子どもを思って育てているのとは違うように思う。 父親がいなかったぶん、母は父の分まですごく頑張ってくれたのだと思う。 けど、それがとても重かった。 母なりに、普通の家庭と変わらないように育てたいと思ってくれてたのだろうけど

    • 毒家庭に育ち、すべてを諦めた私のはなし③

      つづき 離婚の事実を話さない母への嫌悪感やらなんやらで、中学生のとき、プチ反抗期となった。 母も祖父も、過干渉・過保護で私は顔色を伺って生活していた。 ただ、そのストレス?で中学生のときは調子に乗りすぎてしまい、内申点はズタボロだった… ちゃんとしてたらよかったな…と今になって後悔。 とにかく、母・祖父の顔色を伺っていて【怒らせない】ことがとても大切だった。 期限を損ねさせると無視されるからだ。 怒られたり、注意を受けたり、話し合いをもてるならまだマシだ。 うちは違う。

      • 毒家庭に育ち、すべてを諦めた私のはなし②

        つづき 前回記事(毒家庭に育ち、すべてを諦めた私のはなし①|あいだ @365nichi_0812 #note https://note.com/365nichi_0812/n/ndc536c437680) 結局、理由もなにも分からないけど両親は離婚した。 私は、それまでと何も変わらず母の実家で生活しだした。 祖父が父親代わり。 家では父のことはタブーな雰囲気があり、母にも祖父にも父のことは聞いたことがない。 そして、小学3年生の頃から今日まで一度も父とは会っていない。

        • 毒家庭に育ち、すべてを諦めた私のはなし①

          あいだです。 プロフィールにも簡単に書いてあるけど、簡単に自己紹介。 34歳、独身、普通に会社勤めをしている実家暮らしの女です。 予定では34歳では結婚していて、もしかしたら子どももいて、自分の家庭を作っているとばかり思っていた。 が、現実は違いました。 自分自身のこれまでの人生や想いを忘備録がてら綴ります。 ただの自己満です。 そもそも、普通の環境で育っていない自分が、普通の人生を歩めると思っていたことが間違いでした。 母子家庭で育ち、両親がいる家庭を知らない。 明