凪
「おねがい。そっち行かせて?」
はやる気持ちで光る画面に文字を打ち込む。足元には娘がまとわりついている。
既読になるのを待てずに家を出た。
日曜日の朝だった。
前日に夫から「別居したい」と言い渡されていた。
もともと都会人の夫は、この地域のしがらみや慣れない農業にすっかり生気をなくしてしまった。都市部から私の実家がある地方へ移り住んでから5年が経過していた。その間に夫にはダメージが蓄積されていたようだ。この地域から離れてしばらく暮らすのは、夫の頭の中で決定事項のようだった。
「そう。」
小さく答えた私は、思考停止してしまって、その夜は眠れないまま過ごした。
夜が明けて、肺の中には、膨らみきった不安の雲が黒く重く充満していた。これを、吐き出したい。
誰か。
誰か。
今すぐに。
◇◇◇
妹は、いつも家に居る人だ。
専業主婦である。
子供たちが学校から帰ってきたらそこにいる。
おかえりと言って、手を洗わせ、学校であったことを聞きながら、夕飯の支度や洗濯物片付けやこまごましたことをなんだかんだやっている人だ。
外見はちょっとした美人さんで昔はよくモテていた。
夫さんからは熱烈アタックを受け、携帯番号を着信拒否にしておいたという経歴を持つ。
でも、妹の一番の良いところは、心の中に凪を持っているということだと思う。外からの暴風雨にも揺らがない水面を持っている。
その人に、私の肺から黒くて重い雲を吐き出そうとしていた。
◇◇◇
「なにがあった?すぐおいでよ」
というメッセージが携帯に表示されるのを見た私は、とてつもなく安堵した。
子連れで朝早く来た私に、妹はまず温かいコーヒーをれてくれた。
コーヒーは私のこわばった体にじんわりと浸透していき、止まっていた私の思考回路を動かしてくれた。そして妹はありったけのオモチャをリビングにばら撒いて子供達の気を引いておいて、安心して話せる場所を提供してくれた。
忙しいだろうに、話を遮らずにせかさずにゆったりと聞いてくれた。
これまでの経緯や昨夜言われたこと、私がどう思ったかを順番に話していくうちに、だんだんと私は冷静になっていった。
その結果、私は夫の苦しみを客観的に理解することが出来たし、別居もやむなしと思えるように気持ちが整理された。
あの時泣きながら話した場所は、妹の長男の子ども部屋だった。
時間割がデスクマットに挟んである学習机、
種類ごとにネームタグが付いてるおもちゃ箱、
絵本や図鑑が並んだ本棚、
整えられた洋服、
今でも覚えている。
そこにある全ての物に妹の手が入り、慈しみながら一つ一つが配置されていた。丁寧に丁寧にその空間が作られ守られ、一つ一つが存在を肯定されている感じがした。
そんなふうに、聞いてもらえたのは僥倖だった。保留されたり拒絶されたりしていたら、夫にまずいリアクションをしてしまっていたことだろう。
その時しかない。
その瞬間しかない。
求めた時にすぐに。
黒い雲は妹が吐き出させてくれた。
手の指を一滴の水もこぼれ落ちないようにぎゅっと握りしめて、アリも這い出る隙がないほど締め付けて、夫を私が住むこの集落に閉じ込めてしまうこともできた。行かないでと、泣いてすがって懇願して、こじれにこじれることもできた。
でも、そうならなかった。
自宅を出る時は青ざめた顔をしてこわばっていた私だったが、帰り道、国道にできた真新しいダイナーで肉汁がジューシーな美味いハンバーガーを娘と分け合って食べるくらいに回復し、開き直っていた。
その味、忘れられない。
◇◇◇
「ねーねーねーおかあさん」
「ん?」
「おやつなに」
「アイスは一個まで、宿題やってから」
「ゲームを起動するのはまだ!」
「もう少し大きなコップにジュースついでよ」
夕方、何気ないやりとりが妹の家では毎日繰り広げられていることだろう。
妹は、必ず家にいる。
その圧倒的な安心感といったら…。
私も、凪を分けてもらった。
◇◇◇
妹よ、何かあった時には、今度は私に救命信号を出して欲しい。
何度でも聞く。
何時でも聞く。
私からも、凪を。