【障害のこと】頑張る教からの脱会
「頑張ったら、きっと見ている人はいるよ」
と親は言った。
わたしも、良いこと・わるいことは50:50だから、きっとこの障害やいじめのつらさも、今の頑張りで将来帳消しになると思っていた。
勉強を頑張る。親の言いつけを守れるように頑張る。良い子でいられるように頑張る。
学校に行きたくなくても、頑張って教室にはいる。
地元と親元をはなれても、「頑張る信仰」は消えなかった。
そうしないと自分の価値が下がる気がした。
みんなが遊んでいる間に、勉強やサークルを頑張ればお天道様はそれを見てくれている。
その結果、自殺未遂をした。
そんなことになっても、わたしは追いたてられていた。
会社に入って頑張れば、きっと誰かが全うに評価をしてくれる。
そして、不安障害になって退社した。
わたしはいつまで頑張れば良いんですか?
頑張るって、具体的にどういうことなんですか?
むしろ、大人になればなるほど、
「息抜きの仕方を覚える方が大事」
「そんなに頑張らなくて良いんだよ」
と、「頑張る教」の教祖だった親や上司はアドバイスしてくる。
誰も答えてはくれなかった。と気づいた。
結局、「頑張るとはどういうことか」、誰も答えられないのだ。
何が本当なんだろう。わたしは混乱した。
歩けなくなるまで頑張らなきゃいけないのだろうか?
どこまでやれば頑張りを「みてくれる」人が現れるんだろう。
「頑張る信仰」はわたしを救ってくれるどころか追い詰めていった。
いくらやっても答えにたどり着けないのだから。
みんな自分のことで精一杯だし、他人の人生なんて特に気にしてない。
もちろん、努力すれば達成感もあるし成長もある。
でも、それは「頑張る」という抽象的な言葉に引っ張られるとあんまり良いものではない。
自分で選んで、自分で決めたこと。
頑張りの程度や種類を、「自分自身で」選択することに意味がある。
盲目的な頑張りは、自分の道を照らしてはくれない。
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