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武道家シネマ塾⑫ 『線は、僕を描く』~横浜流星の狂気~

この記事は、以前”言葉とたわむれる読みものウェブ”BadCats Weeklyに寄稿したテキストの再掲となります。

横浜流星には、不思議なくらいマッチョイズムの匂いがしない。
極真空手という、“マッチョイズムの結晶”のような格闘技をしていたにも関わらずだ。

僕も‘90年代に極真空手をやっていたのだけれど、当時は「男なら真っ向から打ち合え。下がったら殺す」という男、いや、“漢”比べの世界だった。社会に適応できなさそうな、狂気を帯びた選手も多かった。

指の骨が皮膚を突き破った状態で戦おうとする選手がいた。折れた手足をギプスでガチガチに固めて戦う選手がいた。「血尿出ないと稽古した気がしねーなー」と呟く選手がいた(当時の僕の先生)。
男前な選手もいるにはいたが、みな無骨で猛々しいタイプだった。
横浜流星のようなスマートな二枚目は、どこにもいなかった。

彼がバラエティー番組などで周りから振られて見せる、ハイキックも後ろ回し蹴りも旋風脚も、すばらしい切れ味だ。ただ、彼自身はあまりアクションに固執してるようには見えない。アクション主体の作品を観ても、なんだか居心地が悪く感じる。

そして僕は途方に暮れる。
この「武道家シネマ塾」のコンセプトは、「武道家ライターがアクション映画を偏った視点で語る」というものである。「横浜流星について書け」というお題目をいただいたが、どうもその本人があまりアクション付いていない。大沢誉志幸気分にもなる。

そう言えば、ちょうど彼主演の映画が公開中じゃないか。水墨画がテーマだという。こりゃまた渋い映画ですね。あまり期待はしていなかったけれど、参考までに観てみよう。ちゃんと領収書ももらうよ。

「領収書いただけますか」(いい声で)
「宛名はどうされますか」
「上様で」
「上様はダメなんです」
「……えっ、じゃあ、『BadCatsWeekly様』で!」
「……ばっど……? どんな漢字を書くんですか?」
「もう『ハシマ様』でいいです!」
自分でお金を払って自分宛の領収書を切ってもらった。慣れないことは、もうしない。

無事観終わり映画館を出た僕は、スマホで次回の座席予約をした。どうしても、もう一回観たくなったのだ。ついでに、「水墨画教室 ○○市(僕の居住地)」で検索もした。そう言えば、同じ小泉徳宏監督の『ちはやふる』シリーズを観た時も、「かるた教室 ○○市」で検索をした。十代の頃に『ちはやふる』を観ていたら、僕は空手ではなく競技かるたの道を選んでいた。そうすれば、もう少し雅な青春を送れたことだろう。そして今現在の僕は、「武道家ライター」ではなく「水墨画ライター」になりたい気分だ。

『ちはやふる』にしても今作にしても、描かれているのは静謐な和の世界だが、根底に流れているのは、ある種の「狂気」だ。
『ちはやふる』の綾瀬千早(広瀬すず)や若宮詩暢(松岡茉優)や周防久志(賀来賢人)らのキ〇ガイぶりは、極真空手の選手たちのそれに、近いものがある。
今作でもっとも狂気を感じたのは、意外にも江口洋介である。

“辛い過去を持つ大学生・青山霜介(横浜流星)は、なりゆきで水墨画の大家・篠田湖山(三浦友和)の弟子になる”
その湖山門下の一番弟子が、江口洋介演じる西濱湖峰である。いつもニコニコして、後輩の面倒見もいい、良き兄貴分だ。

だが、急病で倒れた湖山先生のピンチ・ヒッターとして、揮毫会ででっかいでっかい水墨画を書くシーン。この場面での目の輝きが、もう尋常ではない。開いた瞳孔で、張り付いた笑顔で、ぶっとい筆&Tシャツまで使って、でっかい龍に命を吹き込んでいく。

水墨画とは、どうやらただの絵に“命”を吹き込む作業のようだ。並みのテンションでは、命を吹き込むことはできないのだろう。瞬きすら忘れるような集中力、そして歓喜を持ってして、初めてそれが可能となる。おそらく。
水墨画は、書き直しができない。途中、書き損じをするのだが、そのハプニングすら楽しんでしまう。

対照的な存在として、同じく湖山門下の篠田千瑛(湖山先生の孫)がいる。演じるのは清原果耶。『ちはやふる』でもそうだったが、“仏頂面美人”がよく似合う。仏頂面界でもっとも美しい。僕個人としては、大変好きなジャンルの美人である。

この千瑛は、ものすごく精密な花卉画(花の絵)を書くのだが、なかなか湖山先生に認めてもらえない。絵に“命”がないからだ。
だから、千瑛には笑顔がない。常に厳しい顔で画仙紙に向かう。サイコパスすれすれの弾けるような笑顔で筆を走らせる、湖峰とは真逆である。おそらく湖峰から見れば、「どうしてこんなに楽しいことしてるのに、そんなに辛そうな顔してるの?」という感想を抱くだろう。
根が真面目すぎて、「狂えない」タイプだと思われる。

そして、主人公の霜介。彼の絵を、千瑛は「子供みたいに楽しそうに描いてるのに、線に憂いがある」と評した。その“憂い”とは、彼の辛い過去に由来する。
普段の霜介は、物静かで穏やかだ。決して暗くはないのだが、大笑いすることもない。どこかで過去を引きずっており、心の奥底には、厭世観もある。目に力を宿すこともない。
だが、画仙紙に向かえば、千瑛が言うように“子供みたい”なイキイキした顔で描き続け、気がつけば部屋が絵で埋まっている。サイコパスの素質は十分である。

このふたりを安易な恋愛関係にしなかったことにより、この作品は名作となった。ライバルとして、先輩後輩として、そして仲間として描いている。もう本当に本当にキスシーンとかなくて良かった……。安っすい安っすい凡百のエンタメ映画になるところだ。小泉監督のバランス感覚に、心から感謝する。
この絵に描いたような美男美女がくっついたの離れたの、そんなことはどうでもいい。大事なことは、ふたりが立派な“水墨画キ〇ガイ”になれるかどうかだ。

物語の終盤。やっと納得のいく絵を書けたでのあろう千瑛は、初めて心からの笑顔を浮かべる。作中ずーっと仏頂面だったため、この笑顔が本当に美しい。
そして霜介は、大勢のギャラリーの前で揮毫に挑む。その際の目の輝きには、暗い陰は微塵もない。イキイキしすぎて、まるで湖峰先輩のような狂気すら感じられる。
その狂気を宿した目を、どこかで見たことがある。それは、僕が昔見た極真空手のトップ選手たちの目だった。

なんだ。
横浜流星は擬態していただけだった。イケメン俳優の皮を被っていただけだった。本性は、今でも狂気の空手家だった。
もし横浜流星が原宿でスカウトされたりせず、今でも極真空手の選手だったとしたら。魂が震えるような戦いを、繰り広げていたと思う。傷つこうが、骨が折れようが、意識を断たれるまで、相手に立ち向かって行っただろう。
そんな戦いは、普通の人間にはできない。
やっぱり、狂っていなければ。


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ハシマトシヒロ
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