スライド18

体験と体感の融和

こんにちは、谷田です。 

2回ほど、企画や演出に関する投稿をしなかったので今日は真面目に企画に関して書きたいと思います。

今回はメディアプランニングについてです。
しかし、メディアプランニングをする上で私の思考の根底にあるテーマ。「体験と体感の融和」に関して書きます。

このテーマに関しては、色々な講演でも話している内容ですが、何せ潜伏期間39年の私の言葉など誰も聞くはずもないので、あまり広まらないけれど、実は割と真っ当な話なのでしつこいくらい話してきています。

メディアプランニングとは、情報経路の整理とナビゲーションの整備の話なのですが、この情報をどのように流し、どのような経路で情報に接触させて、どのように情報を摂取してもらうかということを考えることを表しています。

私がメディアプランを計画するということは、情報摂取環境をデザインすることと等しいと言って良いと思います。

私がその中でも最高の情報摂取環境だと思っているのがイベント(ライブメディア)と呼ばれるものです。私は個人的には「フィジカルメディア」と呼んでいますが、現段階においてこれを超える情報解像度を持ったメディアを私は知りません。

そして、このフィジカルメディアは質量を持った世界に存在していて、「体験」を提供できる唯一のメディアだと思っています。私の個人的なまとめ方をすると「メディアプランニングとは、体験をどう提供するかを計画すること」としています。

G to B(「物質的質量」と「電子的容量」)

「デジタルの対極はアナログだ。」とおっしゃる人がいますが、私はこの説は時間軸による新旧対比の価値観であり、その一面においては正解、しかし、違う側面からいうと、対比関係とも言い難く不正解であると考えています。

正しく理解するために、まずデジタルもアナログも事象の記録・再現に必要なテクノロジーであると知る必要があります。あまりに当たり前のことなので忘れがちですが、とても大切なことです。

大切な視点は、記録は、その元となるオリジナルが何であるかによってその保存方法が変わるということです。

音楽であればスコアとして、「書く」という方法で紙というメディアに残す。から始まり、「録音」という方法の記憶に関して言えば「テープなどの磁気媒体」に残す。そして現在馴染みある「電子情報としてのデータ」として残すということがあります。アナログなメディアに関しては質量があり、デジタルメディアに関しては質量が伴わないことも大きな特徴であると言えます。

ここでいうデータと言うものは、メディアに記録された電子情報を指し、メディア自体の質量というものを含まないこととします。

音楽の記録メディアの変遷は主に以下のものとなります。

音楽の記録メディアの変遷(抜粋)
紙(楽譜・スコア)-アナログ-
振動記録メディア(レコード)-アナログ-
磁気記録メディア (テープ)-アナログ-
デジタル記録メディア(CD)-デジタル in アナログ-
データ(情報)-デジタル-

の順に形とその方式を変えて進化(変容)してきました。

質量とはつまり重力に対する物質量のことを指すと記憶していますが、この進化は質量を減らし、その空間占有率を下げていく進化系譜になっていると言えます。アナログでは情報量と質量が比例し、デジタルでは、情報量と質量は比例せず、別軸の容量という比例軸を持っていると言えます。

常に情報を残すということでは共通していますが、質量をデジタル変換した時に、データの容量に質量は変換されて現代に至るというところでしょうか。

つまり物理世界(フィジカル)からその質量は失われても、仮想世界(デジタル)の中に取り込んだ瞬間に質量(情報量)はG(グラム)からB(バイト)へ変化したと考えるのがわかりやすいと思います。

音楽の世界ではこのような進化が起こりましたが、私は、今はこの絶対的潮流の中にある大切なことは何かを説く時代になっているのだと思っています。

デジタルは人間を質量から解放したが、失わせたものはないのか?

データを取り扱う上で最も馴染みがあるものがGUI(Graphical User Interface)です。スマートフォンやPCがそれの代表的なものです。マウスやトラックパッドを使ったり、タッチパネルを使ったりして、データの移動や編集を行います。直感的に「データを触って」現実世界で行うファイル整理と同じ思考感覚で質量を伴わず実に楽に同じようなことができるのがGUIの向こう側、つまりデジタルの良いところです。

しかし、このテクノロジーには問題があります、データを触っている感覚になりますが、実際は、ガラスを板を触っているに過ぎず、実際に物質世界にその影響を及ぼすことは難しいという課題があります。つまり、ガラスに触れているだけで、そこに実体がないという事が現時点におけるこれらの技術の問題点です。それは、アナログ、デジタル問わず、一度メディア記録してしまった情報は取り出すことが難しいということを意味しています。

一度、記録メディアの世界に入れてしまった情報は再現性という点で表現技術に依存し、決してオリジナルを取り戻す事はないという事です。

MIT MEDIA LABの石井裕先生がこの研究を行なっておられますので、今後はそんな未来に期待しつつ、ここでは話を進めたいと思います。

高解像度で記録した果物の写真はスマートフォンで見ることができるが、食べる事が出来ない。レモンの写真を見て唾液は分泌されるが実際にあの味覚を刺激する体験は得られない。という問題がそれに似ていると思います。

今後は分子プリンタのようなものができて、デジタルで保存したものが再現される技術が生まれるかもしれませんが、そうなった時にすでにテクノロジーのレベルは別段階に上がっていると思われます。なので、そういう飛躍したことを申し上げるのはやめておいて、私はこの先に20年くらいの話をしたいと思います。

実際にレモンを食べたという「体験」に基づく身体記憶と反応した記憶を元に、脳内で再現したレモンを食べた時の味の記憶を取り出し、唾液を分泌することで、「体感」を得たりする。つまりそれが体験と体感の完全なる違いです。

GUIの解像度が上がって行く進化と並行し、人間の身体に影響を及ぼさない質量変化を繰り返す事で、テクノロジーは進化してきたという事だと思います。

この先テクノロジーが進化し、解像度が上がる一定を超えた時点で、人間は「体験」と「体感」の違いを識別できなくなる世界が来る。私はそう考えています。

オリジナルの「種」が失われることについて

2019年の段階において、まだこれらの境界線は厚いと言えます。
それを超えられないのが現段階のテクノロジーなのだと思っています。しかし、今後は全く違うと思いますし、ますますテクノロジーは進化することは明らかです。ただ現時点で私は今後のしばらくの世界は二極化すると私は考えています。

①デジタルの世界における「体験」という新定義が定着し、バーチャル体験(新定義された体感)の高解像度化によるデジタル体感(疑似体験)で完結する状態。
②デジタルツイン的なデジタル世界における現実世界からの変換解像度が上がる事で、フィジカル体験(実体験)とデジタル体感(疑似体験)・バーチャル体験(新定義された体感)の曖昧さが共存する状態で違いを補完し合う状態。

この二極化がしばらくは続くだろうと思います。しかし、私には懸念すべき点があるのですが、「デジタル体感」が「フィジカル体験」の代替えとして活用される傾向にある現在の流れにおいて、「フィジカル体験」をした事がない人間が増えた時に、「デジタル体感」の精度が上がらなくなるという問題があるのではないかと思っています。これは私が先日書いた「クリエイティブにおける母性原理」と同じことだと思います。

リアルを知らない者が作った「リアリティ」に本質的リアルの価値が残せるかという問題です。

超高解像度の映像で記録した風景は、誰かがそこに行ったという「フィジカル体験」から生み出されています。

そして、「フィジカル体験」と「デジタル体感」は、マザーマシンと製品の関係性と同じ母性原理と同じ関係にあります。フィジカル体験を経て、身体記憶、反応記憶が残ります。

その記憶に基づき再現された「デジタル体感」という母性原理から考えるとその「フィジカル体験」というオリジナル(ORIGIN)は確実に存在していて、そのオリジナルがなく、体感から体感を作り出すというフェーズに入った瞬間に、この質量を伴う身体記憶を得られる状況は消滅へと加速する可能性があるのではないかということを、個人的にはとても心配しています。これはノスタルジーなのか、それとも全く違った危機感なのか、いまだに自分の考えを整理できずにいます。

ノスタルジーは敵か、それとも…

私はオリジナルに対する郷愁的回帰論のようなものは、テクノロジーの進化を阻害するものではないと個人的には考えています。

これは人類の道しるべであるように思うわけです。どこまでいっても人間という存在が本当に質量から解放された世界が幸せなのかと言えば、そう言い切れるほど人間は割り切れる存在ではないと思います。

なぜなら、ひとつとして同じ身体記憶は存在しないためです。それは感じ方が人それぞれであり、そこに人間の個性が存在するからです。

しかし、この質量を伴う世界には、多大なストレスが存在し、人間を様々に苦しめます。しかし、同時に自身の人生に豊かさを与える記憶や体験の蓄積は全て質量のあるこのフィジカル空間から与えられたものであることも事実なのです。

体験と体感の融和に関しては、テクノロジー側からのアプローチやその表現精度はどんどん向上してゆくことは明らかです。

体験と体感の融和された世界は、フィジカルとデジタルの融和された世界です。この未来が豊かであることに希望を持ちたいと考えます。

だとすれば、その世界を支えるテクノロジーをより良く、精度の高いものを生み出してゆけるように、オリジナルであるフィジカル体験の保存、つまりテクノロジー進化の種の保存をしっかりとしてゆく必要があるのだと思います。

なぜなら、一度、喪失したオリジナルは、取り戻すことが困難だからです。いくら人工知能が進化しても、それは変わらない普遍の真理だと思っています。オリジナルの身体記憶にバックアップは存在しないのです。

当然、技術者の込めたメッセージをしっかりと使う側が受けて取れるかどうかも、大きく関わってくると思います。作る人間、使う人間の双方に似たような身体記憶を持てるように、その種を残すことも同時に行われなければならないと考えます。その理由は、10歳の時の体験と、40歳になってからの体験の違いは、時間の進行に関係なく同じではないからです。

体感の均一化・均等化によって失われる体感の多様性を奪わないためにもオリジナル「体験」の保存は必要なことなのです。

まとめ

ここまで考えた上で、いかに体験と体感を融和させるか、その境界を曖昧にしていくかを考えることで、より質の高いメディアプランニングが可能になると私は考えています。

デジタルの対極をフィジカルと考えることで、デジタルの良さもしっかりと捉えることが可能になります。こうすることで、あるテクノロジーの良い部分と足らない部分をしっかりを線引きするできる視点を得ることができます。デジタルで補えない部分をどうフィジカルで補うか、またその逆も然りだと思います。

今回は体験をどうデザインするか、そしてどの体験をどういう環境を作り、どういう経路で提供するか。徹底的に考える上でベースとなる私の考えを書きました。当たり前のことでもこうやって書くと、すごい事のように思えるのがなんとも不思議な「体験」でした。

長文おつきあい頂きありがとうございました。








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