永谷園のお茶づけ海苔と東海道五十七次への旅: 新たな発見 (元教授、定年退職226日目)
子供の頃、私はよくおやつや夜食に「永谷園のお茶づけ海苔」を食べていました。柳家小さん師匠が CM を務めた「あさげ」や「松茸のお吸い物」も美味しかったですが、お茶づけ海苔に特に惹かれた理由の一つは、付録として付いてくる「東海道五十三次」カードの存在でした。当時の小学生は皆、何かを集めるのが好きで、学校でそれを自慢し合うのが常でした。
私もご多分にもれず、切手や東海道五十三次カードを集めていました。ただし、切手では「月に雁」や「見返り美人」などの希少なものは高嶺の花でしたし、東海道五十三次カードも全種類を揃えることは叶わず、どちらも中途半端で諦めたほろ苦い思い出があります。
東海道五十三次の錦絵カードは歌川広重の作品で、「日本橋」から始まり「京都三条大橋」で終わる全 55 枚の壮大なシリーズです。三菱UFJ銀行のホームページでは、その全作品が掲載されています(下写真)。(タイトル写真は、奥様所有の「歌川広重 X PEANUTS」クリアケース)
知られざる東海道五十七次 〜徳川の隠された思惑〜
さて、今回は五十三次ではなく、「五十七次」についてのお話です(下写真)。先日、NHK の番組「ブラタモリ」でこの特集が三夜連続で放映されました。この番組は、知的で飄々としたタモリさんと初々しいアシスタントが旅をし、専門家の解説が加わることで、他の番組とは異なる魅力があります。今回は特に、あまり知られていない五十七次の旅ということで、私はとても楽しみにしていました。
最初に訪れたのは、五十三次と五十七次のルートの分岐点でした。三条大橋から約6キロ手前、大津宿よりも京都寄りの場所です。私は京都に長く住んでいたので詳しいつもりでしたが、この場所は全くの盲点で、新たな発見となりました。番組内では地名の紹介はなかったため、Google マップで調べてみたところ、「髭茶屋追分」ということが判明しました。近くに京阪電車の「追分」駅があることからも、この場所が分岐点であることが実感できます。三叉路には「右:京道、左:伏見道」と記された碑があり、右は京都へ、左は大阪へと続いています。
番組では、この道を左に進み、大阪へ向かう 54 キロのルートを辿っていきました。私はてっきり京都三条経由の大阪ルートだと思い込んでいたので、とても驚きました。このルート設定には、徳川幕府の深い思惑があったようです。天皇の住まう京都から大名たちを遠ざけ、武家と天皇の結託による謀反を防ぐ狙いがあったと考えられています。
さらに、番組ではこの付近で当時流行した街道土産「大津絵」も紹介されました。ユーモラスな鬼の絵は、魔除けや夜泣き止めとして家庭で使われていたそうで、版画ではなく手描きで大量生産されていた事実も明らかになりました(下写真)。
伏見宿と練り羊羹に見る江戸時代の旅
その後、タモリさん一行は五十四次の伏見宿に向かいました。江戸時代の伏見は人口2万人を超える大きな街だったそうです。そして秀吉が築いた城下町を、徳川家康は手間をかけずそのまま宿場町として利用しました。ちなみに、専門家の研究によると、家康は晩年の25年間、駿府(静岡)に次いで伏見に滞在していた期間が長かったそうです(下写真)。そのため、御三家の子息たちも伏見で誕生しており、周辺の神社には葵の御紋が見られるなど、伏見が幕府にとって特別な地であったことがわかります。
初日の締めくくりには、伏見の名物土産である「練りようかん」が紹介されました。これは従来の「蒸しようかん」の保存性を高め、土産として長時間持ち運べるように、寒天で練り上げたものです(下写真)。
今回の「ブラタモリ」を通して、身近な歴史の中にある新たな発見に触れることができました。この歳になって、改めて日本の歴史を学ぶ面白さを実感しています(遅い! 笑)。明日もまた続きます、お楽しみに!
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注1:三菱UFJ銀行ホームページ、歌川広重と東海道五拾三次よりhttps://www.bk.mufg.jp/currency_museum/special/53story/index.html注2:NHK番組「ブラタモリ:東海道"五十七次"の旅」より