「説教塾」
二十年前、洗礼を受けたときの、記念品が、『み言葉の放つ光に生かされ』という説教集だった。はじめて読んだとき、違和感を感じたが、私はひとつの教会だけの純粋培養で信仰を育てられたので、あまり知らないタイプの説教だから戸惑ったのだろうと思った。
ほどなくして、その説教者は、極めて有名な牧師であることを知った。近所の普通の図書館にさえ、その牧師の説教集は、たくさんあった。そのうちのひとつ、ヨハネの黙示録の連続講解説教は、読破した。しかし、当初の違和感はぬぐえなかった。
だいぶして、その牧師の大ファンと知り合った。その牧師の大ファンは、複数、知っている。人気があるのである。その仲間から、その牧師の書いた、カテキズム(信仰問答集)を借りた。時間はかかったが、読破した。読破してから、それは通して読むようなものではないと言われた。
2015年、最初のダウンのときだが、さまざまな本を読んだ。唯一、最後まで読めなかった本が、その『み言葉の放つ光に生かされ』だった。最悪の本だった。すばらしいみ言葉のかずかずに、逆に感心するほど、ことごとくひどい解釈をほどこしていくその手腕。見事すぎて、4分の1くらい読んで、挫折した。もうそれ以来、その牧師の書くものは、読んでいない。
その牧師は、「説教塾」というものをやっていることで有名なのである。説教批評なるものをやっているらしい。よほど説教に自信があるのだろう。説教を批評してゆく。そして、さまざまな突っ込みどころを、どんどんなくしてゆく。そして、もう誰からも突っ込みを受けない、だれにも揚げ足を取られない、非の打ちどころのない、完璧な説教を作り上げてゆく。
しかし、そうしてできた「説教」が、生きた神の言葉を語っているかと言ったら、それは違うと思う。
これは、完全に、好みの問題となるので、なんとも言えないのだが、とにかく突っ込みどころのない、揚げ足の取りようのない説教をしているのだから、こちらとしても、揚げ足は取れない。ただし、先述の、カテキズムを読んだときに感じた違和感が、だいぶたって、言語化できたので、それは書いておく。そのカテキズムは、複雑怪奇だった。決して間違ったことが書いてある本ではない。私自身も、決してその本から裁かれなかった。しかし、信仰というものは、そのようにして、複雑怪奇な鋳型でもって、人間を当てはめて、作るものだろうか。私はたまたま、その牧師から、異端の烙印は押されなかったが、暗にそのカテキズムは、「この鋳型に当てはまらない人は、キリスト者失格ですよ」と言わんばかりだったのだ。正しい本は人を裁く。正しい人も人を裁く。非の打ちどころのない正しい説教は、人を裁くのではないか。そう思わせられる内容だった。その違和感は、そのカテキズムを読み終わって、だいぶたってから、言語化できた。
なぜ、その牧師がそんなに人気があるのか、私には理解できないし、そもそもその牧師の説教そのものが、理解できない。その牧師の批判をしている者はいないか、その牧師の名前と「批判」という言葉で検索しても、説教塾の、「説教批判」しかヒットしない。ほんとうに、非の打ちどころがないのだろう。
私の書くものは、突っ込みどころが満載である。私自身、突っ込みどころが服を着て歩いているようなものだ。およそ数学という論理的な学問をやってきた人間とは思えない、と先の者にも言われるのだが、それを言えば、あらゆる学問は論理だと思う。ただ、たしかに数学はとくに論理である。しかし、それだからこそ、ホンモノの論理と、論理に見せかけた非論理との区別はつくのだ。こういう文章を書いているときの私は、論理的でないことは、自分で承知している。しかし、その意味では、論理的な人間などいないのだ。どちらかと言えば、そう言ってきた彼のほうが、論理よりも空気を読んで動いている、典型的な「普通の」人間だった。
加藤常昭(あ、書いちまった)も、典型的なエセインテリである。2020年11月19日現在、存命しているようだが、老害である。だいたい、隠退してからも、ひんぱんに全国の教会へ行っては説教と講演会をし、たくさんの本を書いて金もうけをしてきたのである。隠退してから「神学者」を名乗るようになった。まさかね。高校の数学の教師が、引退したら、「数学者」になるようなものである。なるわけないのに。傲慢もほどほどにするがよい。こういうやつが、日本のキリスト教を、ダメにしてきたのだ。彼は、人一倍、厳しい裁きを受けるであろう。(教師だからね。)
以上、彼は突っ込みどころがないそうだから、突っ込みどころ満載の私が、説教塾批評をしてやった。私の揚げ足はいくらでも取れるよ。私は正論ではなく極論だから。ここまでお読みくださった皆さま、すみません。ありがとうございました。