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エックハルトと安冨歩

 安冨歩氏の著作『生きる技法』にはだいぶ影響を受けました。「自立とは、多くの人に依存することである」。そのとおりだと思います。私のnoteは、その実践例ばかりではないかと思うほど、この発想がもとになっている感じです。その安冨歩氏が、2016年にある教会で行った講演の講演録を読んで、ものすごくおもしろい思いをしたことがありますので、少し書いておきます。

 エックハルトとハラスメントの話をなさっていました。エックハルトと言っても、多くのキリスト教の人でも知らないのではないかと思います。私もそのときまで知りませんでした。そのときに安冨さんが挙げている、岩波文庫の『エックハルト説教集』のなかの、最初の説教の、安冨さんの解釈に、非常に興味を惹かれました。

 イエスが神殿で商人を追い出す箇所におけるエックハルトの説教なのです。以下のような話でした。商人とは、取り引きをする者である。とくに、神と取り引きする者。それは、良いことをしたら良い報いを期待し、悪いことをしたら罰せられるという前提で、良い報いを期待して善行をする者。そういう者は神と取り引きをしているのであって、そういう者は商人であって、そういう者はイエスが神殿から追い出すぞ。と、そういう説教でした。(安冨さんの「解釈」というより、そう言われて読んだら、そうとしか読めないものであります。しかし、安冨さんは、エックハルトの他の説教も同様だと語っておられましたが、私には他のエックハルトの説教は、どう読んだらよいか、わからないものでした。おそらく安冨歩というかたは非常に賢いのでしょう。)

 このように発想する人物はエックハルトだけではないわけでして、安冨さんの指摘するとおり、親鸞もそうでしょうし、昔から延々と続いている「人間の努力ではない」ということを基盤に置く発想といえるでしょう。ねえ、善行を積んでよい報いが得られることを期待する者は、「神と取り引きする者」ですって!痛快ではないですか。

 前から何度も書いていますが、「信仰義認論」にせよ「悪人正機説」にせよ、きちんと説明することは困難なことです。わかる人にはすんなり受け入れられる話ですけど。ですから、エックハルトの後継者がいなくてもよい。エックハルトも誰かの後継者ではなかった。「影響を受けた人物は安冨歩」と言う人のなかにも、どれほどの真の理解者がいるものか。この「腹ぺこ」だって、どこまで理解者がいるのかわからない。でも、書き続けたいと思います。できれば、生きているあいだに報われたいけどね。そんなオレは「商人」か?(笑)

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