「いいね」と「スキ」
私はかつてツイッターをやっていました。ハートマークをつけることを「いいね」と言っていました。また、私はいま、noteというものをやっていますが、これはハートマークをつけることを「スキ」と言っています。ほかのSNSをよく知りませんが、本日はこの「いいね」と「スキ」の違いについて書きたいと思います。
「いいね」というのは価値を認めています。いっぽうで「スキ」というのは単なる好みの問題です。これは似ているけれど根本的に違う概念だろうと思うのです。音楽評論家の故・宇野功芳(うの・こうほう)さんが書いていました(いつも記憶に頼った引用ばかりですみません)。評論家たるものは「いい・悪い」で評価すべきものであって、「好き・嫌い」で評論をしてはいけないものなのだ、と。しかし、その宇野さんにしても、よく読めばけっこう好き・嫌いで評論しています。ただし、好き・嫌いで評論して、それがぴったり「いい・悪い」にハマるという、ごく一部の「センスある」音楽ライターさんのみが生き残るのでしょう。アマチュアのブログで音楽評論を繰り広げる人のなかにも、まれにこの才能を持った人がいます。
ある牧師の資格を持った友人が言っていました。聖書の翻訳には、翻訳した人の「信仰」が表れると。私もいくつかの異なる翻訳の聖書を読んでみて、その言葉には共感します。結局、皆さん聖書を自分の都合のいいように読んでいるのです。これは悪い意味で言っているのではなく、皆さんそのようなものだということです。どれほど学問的に中立な立場で聖書を翻訳しているように見える人であってもそうです。私も大いに聖書を主観的に読んでいます。「あなたの聖書の読みかたはずいぶん自分に都合がいいのだね」とよく言われますが、それでいいと思っています。
だいたい、教会で「好きな聖書の言葉は」という言いかたをよくするものです。「愛唱讃美歌(好きな讃美歌)」というものは、その人が亡くなったとき、必ずお葬式で歌われるものです。決して「いい聖書の言葉」とは言わず「好きな聖書の言葉」と言います。ある人の「好きな聖書の言葉」は「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」で始まるヨハネによる福音書の冒頭でした。その人はその言葉が大好きなのですが、「好きに理由はない」ということの典型で、その人は、自分はどうしてその言葉が好きなのか、言語化しておられませんでした。好きなものは好きなのです。
テストの採点でさえも、主観が入ります。あたかも採点というものは誰がやっても同じになる、「公平で平等な」もののように思われますが、じつは採点というものは本来、主観のかたまりです。「この答案はいい」と思うかどうかが主観なのです。セミナー発表さえも主観です。
私は「いいね」と「スキ」という言いかたでは「スキ」という言いかたのほうが「好き」です。みんなが嫌いな記事であっても、自分が好きだったら、それは「スキ」を押していいのです。これは「スキ」のいいところです!
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