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神の甘やかし

 「人は行いによってではなく信仰によって義とされる」という聖書の教えがあります。パウロの手紙に繰り返し出てくるもので、難しい言葉では、信仰義認論とも言います。

 この言葉を、「信仰によって」という言葉に力点を置いて読むと、「信じる者は救われる」というふうになります。ここにつまずいていた若い友人がいました。「信じなければ、救われないとでも言うのか!?」という感じです。しかし、私には、そういうつもりで、パウロがこう言っているようには思えません。

 この言葉は、「行いによってではなく」というところに、力点があると思います。パウロの言うとおり、「正しい人はひとりもいない」のですから、人間が、自分の努力で救われるわけではないのです(立派な行いで救われるのなら、誰も救われません)。人は、立派な行いによって立派に救われていくわけではなく、神様の愛と恵みによって、救われていくのです。

 (「救い」とはなにか?「ああ、よかった、安心、安心」と思えること。私にとっての「救い」の定義です。仮にですが)

 これは、人間の側からすると「自分じゃできない、神様、助けて!」と言っているようにも思えます。自分で自分はどうしようもないので、神様に甘えているのです。そして、神様はその人間の甘えに応えてくださる。

 この話を突き詰めていくと、「信仰によって」というところが、どんどん消えていって、「信仰と甘えとは違う」と言っている土居健郎の主張とぶつかるようになるのですが、構いません笑。そもそも、信仰とはなにか、という定義が、ひとによって違い過ぎるので。

 そもそも、「神様は、みんな、救ってくださいますよ」とか「神様は、すべて、ゆるしてくださいますよ」というのが、とてもむしのいい信仰でありまして笑、やはり、キリスト教って、究極的には「神の甘やかし」なのではないか、とさえ思いますね。

 (誤解を生みそうなので、あわててお断りしますが、私は、「甘え」という言葉を、悪く使っているつもりはありません。上に書いた文章も、下に書く文章も、すべて、肯定的な意味合いで書いています。)

 そういうわけで、「神の甘やかし」がなければ、人は生きることすらできません。そこになにか人間的な条件をつけたがる多くの人は、やっぱりどこか自分の力で救いを得ようとしているかのようです。でも、神様の圧倒的な愛と恵みの前に、人間はあまりにも無力です。罪が深すぎる。とくに私。「行いによって」救われるのなら、私は地獄に落ちるしかありません。

 もう、究極的には、「神の甘やかし」を信じましょうね。どれほどダメ人間でも、どれほど罪が深くても、神様だけは私を見捨てない。こんなダメな私こそ、神様は救ってくださる。この世でどれだけ報われなくても(報われないほど)、御国で永遠の命を約束してくださる。根拠はないですよ。いくら聖書を読んでも、根拠があるわけではありません。でも、ほんとうに神様がいるのだったら、それは、すべてゆるしてくれる、究極の「甘やかす神」ではないでしょうか。

 どうも、うまく伝わるように書けなかった気がしています。通じる人には通じるだろうと思って書いています。多くの人に「ああ、よかった、安心、安心」と思ってもらいたいと思っています。私も、そう思いたいです。神様に甘えましょう。神様は、厳しいかたのようですが、究極的には、甘やかしてくださいます。そうでなければ、誰が神様を信じるでしょう。誰が生きることができるでしょう。
 ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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