予定説と「ひとは変わらない」
カルヴァンの「予定説」というものを聞いたことがあります。カルヴァンとは宗教改革者のひとりで、私もおおざっぱにしかしりませんが、「予定説」というものを唱えたと言います。もう、おおざっぱに私が理解していることのみ書きますと、救われる人はあらかじめ決まっている。人間の努力によらない。すべては神があらかじめ定めている、というものです。
私は初めて「予定説」を知ったとき、非常に共感したことを思い出します。ぴんときたのです。のちに、カルヴァンへのさまざまな批判などを知ることになりますが、根本的に私が予定説に共感していることは、以下のように言えます。
つまり、私の最も言いたいひとことはなにかと言いますと「ひとは変わらない」ということに尽きるのです。私自身、変わらない人間です。幼少のころから、なにひとつ変わっていない。あれだけ叱られても、相変わらず、整理整頓はできない。何回、同じことを言われても改善できない。どれだけ反省しても、変わらないのです。数学の教師だったころも、最後まで中高の数学には成り切れず、相変わらず、数学にたいする姿勢は、学者みたいです(学者みたいに「できる」とは言っていませんので、ご注意ください)。もう、私が、ひとことだけ言っていいよと言われたら、私は「ひとは変わらない」と言うと思います。
それが、予定説の発想にぴったりくるのです。いくら努力しても救われない人は救われない。どれだけサボっている人でも、救われる人は救われる。これはまるで、いくら努力してもできないことはできない私、できることはそれほど努力しなくてもできてしまう私、そして、教師のときにたくさん見ましたが、いくら努力しても数学はできないと思われる生徒さん。教師は決してそれを言いません。あくまで数学ができないのは本人の努力不足。自分が数学ができるのは、努力したから。…。そういう発想に、「予定説」は、はっきり反対の姿勢を見せていると感じます。あらかじめ数学ができる人、できない人は予定されている。あらかじめ、空気が読めない人、読める人は、予定されている。あらかじめ、運動ができる人、できない人は予定されている。あらかじめ、料理ができる人、できない人は、予定されている。そこからすると、宗教の本質を見抜く目をもっている人も、予定されているとしか言いようがなくなります。私の言いたいこと、なんとなく伝わりますか?
そういうわけで、「ひとは変わらない」ということと、カルヴァンの予定説に私が共感した話でした。どなたかに、この気持ちが伝わったら、非常にうれしいです。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。