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十数年経っても忘れられずにいるエピソード。

「わあ、この写真、おかあさんじゃないみたい」

結婚したばかりのころ、義両親も交えて夫の子どもの頃の写真を見ていた時のことである。
小学生低学年の頃の夫の横に、お姉さんかと思うほど若々しい人が写っていた写真。とても親子には見えなかった。

その写真を見て思わず出た言葉だった。
「おかあさん、すごい若々しくて姉弟みたい」と誉め言葉で発したつもりの言葉だったのに、なぜかその場の空気が固まった感じがした。

その空気に戸惑っていると、夫に
「おかんとは全く別の人が写っているように見えるってこと?」と突っ込まれた。

そこで初めて私は気が付いた。
私は、「おかあさん」というよりも「おねえさん」みたい、と思ったので「おかあさん」ではないと言ったのだが、「写真の中の人物が目の前のおかあさんとは別の人のように見える」と伝わってしまっていたのだ。
意図したこととは違う意味で解釈されてしまった


慌てて言葉を継いだ。
「おかあさん、というよりはお姉さんみたいですね」

夫に突っ込まれてその時は何とか弁明の場を得ることができた

しかし、そうやって意図せぬままに誤解を与えるような表現をしたことがそれまでにも何回となくあったのかもしれない、とその時初めてギクリとした。


ネットや書き言葉の世界でも、言葉が足りないばかりに誤解を与えたままになってしまうことがある。

小学校の保護者向け勉強会でネットトラブルについて学ぶ機会もあった。
成人した大人が顔と顔を突き合わせてした会話でも誤解を与えてしまったことがあったのに、自分のことで精いっぱいの小中学生をネットの海に放り投げるのは何とも恐ろしい。

我が家の子どもたちも少しずつタブレットを使うようになり、LINEなどでネットによる交流を始めている。
学校でも学ぶ機会はあるようだが、今のところトラブルを起こさないよう見守るしかない。

とある教育系情報番組で、ネットリテラシーについて研究している兵庫県立大学准教授の竹内和雄氏がトラブルになった時は、ネットの問題をネットで解決しようとするべきではない、とおっしゃっていた。


言葉を使うことで自分の価値が試される。

なぜかいつまでも私の中に残っている、家族で写真を見たときの記憶。
「言葉を大事にするように」と私に突き付けられた課題なのかもしれない。

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