『ざらざらをさわる』三好愛を読んで自分の呪いと再会した先に
「カルメンは高い声が出ないからね」
カルメンというのは私の中学と高校時代のあだ名だ。私は合唱部だった。パートわけでは女声合唱ならメゾ、混声合唱ならアルト。つまり、女性の中音域から下を担当していた。冒頭の言葉は同じ中学から合唱部にいた子に高校二年生の時に言われた。
なぜこの言葉を思い出したのか。三好愛の『ざらざらをさわる』の『呪いの先に』というエッセイに登場する著者の友人が、私のこの友人にそっくりだったからである。見た目はそのエッセイだけではわからないけれど私は「同じだ」と思った。
エッセイの中で友人は著者に対して「愛ちゃんは人の顔を描くのが下手だね」と言ってくる。二人の関係は呪いからはじまる。見たままにそっくりと描くことがうまい子と、似せて描くのが苦手な著者。美人で、気が強く、潑剌としているその子と私の友人が重なる。彼女は低音域から高音域まで出すことが得意で、声量があった。一方で私はどんなに頑張っても声が小さかった。
呪いは、完全に消すのは難しい。年が経ったからといって単純に消えるものではない。では思い出や友情は美しかったのか、意義があったのではないか。「気づいてみれば、最後まで残ったのは自己肯定力がひたすら薄くなった自分だけでした。」
私の「高い声がでない」呪いを解いたのは、現役でプロの指揮者として指導している先生の一言であった。「カルメンはソプラノのセカンドだね」それはつまり、高音域から2番目だった。その時はじめて友人が「絶対」ではないと知ることになる。
私にとっては呪いだったその言葉や関係は、彼女にとってなんだったんだろうか。それを知りたい。このエッセイの題は呪いではなく”呪いの先に”だ。今はまだ準備ができていないかもしれないけれど、どんな言葉をかけられたとしても受け止める心構えができたら彼女に会いに行きたいと、前に進む意思を持って生きていく。私もそうありたい。
『ざらざらをさわる』は一冊を通して自分の幼少期から現在までの追体験をしているようだった。自分ではないだれかの写真を見て「なつかしい」と思う感覚だ。懐かしいと同時に、こうやって毎日生きてきた人が他にもいたんだという嬉しさが込み上げてくる。もし叶うなら著者の三好さんに会って一緒に、ファミレスとかでお茶をしてみたい。日常の延長で出会ってよかった一冊だった。
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