『野菊の如き君なりき』 メンタルクリニックの映画館
『野菊の如き君なりき』
(木下恵介監督、1955年)
【前口上】
今日は、木下恵介監督の『野菊の如き君なりき』(1955)を上映します。
この会では、同じ木下恵介の『二十四の瞳』を取り上げたことがありますが、今日の作品は、『二十四の瞳』の翌年の製作です。『二十四の瞳』は、日本の庶民が戦争に否応なくのみ込まれてゆく時代に、大石先生と教え子の子供たちの姿をとおして、庶民の生き方を問うた作品でした。
私は、共通のテーマが、今日の作品にも流れていると思っております。物語こそ明治時代のお話ですけれど。
伊藤左千夫の原作『野菊の墓』は、お読みになった方もいらっしゃると思います。1906(明治39)年の発表。漱石の『吾輩は猫である』(1905)や『坊ちゃん』(1906)と同時代の小説です。
旧家の次男政夫と従姉の民子との幼く淡い恋が、村の因習や家族制度のなかで引き裂かれる。とても哀れだけれど素朴な味わいのある名作です。
その素朴な味わいの明治時代の小説を、木下恵介は、現代の日本社会にも響くように脚色して映画化しました。どのような創意工夫がなされたかは、上映後の解説で少しお喋りさせていただきますが、先ずは作品をごゆっくりご覧下さい。92分の作品です。
【上映後】
『野菊の如き君なりき』をご覧いただきました。
私、この映画を最初に観たのは、たぶん、もう30年以上前のことだと思いますけれども、民子が嫁入りするシーンで、人力車に乗った民子がふっと顔を前にあげますね。するとお祖母さんに「民子、お嫁さんはうつむいて行きなさい」と言われる。あのシーンが哀れでね。強く心に残ったんですが、そのことは、後で少し詳しくお話します。
木下恵介の創意—冒頭シークェンスから
映画の冒頭で、年老いた政夫(笠 智衆)が、川舟に乗って故郷を訪ねようとしています。
せりふで政夫は73歳になったと言う。「死ぬ前にもう一度、生まれ故郷を見ておきたい」と、便利な鉄道もあるのに、幼かった日の恋をもう一度偲ぶために、わざわざ舟を雇って川を遡ってゆく。*
短歌(和歌)が詠まれます。
という歌が字幕のみで、
という歌が、字幕と政夫(笠)の語りで詠まれます。
回想で、岸辺の政夫と舟の客である民子が、お互いに呼び交わすシーンが挿入された後、もう一首歌が詠まれて、冒頭シークェンスは物語本編へと移ってゆきます。が、既に、この冒頭シークェンスに、作品全体にわたる、監督木下恵介の創意が表われています。
一つは時の隔たりの問題です。
伊藤左千夫の原作は、明治39年(1906)の発表だと申しました。原作も映画と同様に、主人公の政夫が民子との幼い恋を回想する形式をとっているんですが、時間の隔たりは10年なんですね。
物語の本編は、明治20年代の終わり、日清戦争後の1895年頃の話です。その物語の回想の起点を、木下恵介は60年後の現代=この映画が製作された1955年頃にもってきた。これが創意工夫の第一です。
創意工夫の第二は、映画をご覧になってすぐお気付きのように、60年の時を隔てた明治時代の回想に、すべて卵形のフレームをかぶせたことです。昔の写真のアルバムなどを繰っていると、記念写真などによくあのようなフレームがかぶせられていたものです。最近はほとんど見かけませんが…。その卵形のフレームで狙った効果には、なかなか微妙な味わいがあります。
創意工夫の三つ目は、短歌です。原作には短歌はでてまいりません。
映画の全編をとおして十一首の短歌が詠まれるんですが、すべて原作者の伊藤左千夫が『野菊の墓』の創作とは別に詠んだ短歌を使っています。
左千夫は、一般には特に小説『野菊の墓』が有名ですが、歌人としても名を遺した人で、正岡子規の弟子となり、江戸時代以来、停滞していた短歌(和歌)を子規とともに再興した人です。文学的な功績としては、小説家としてよりも歌人としての功績の方が大きかったんじゃないか、という人なんですが、左千夫が小説『野菊の墓』とは関係なく生涯にわたって詠んだ短歌を、木下恵介は自由にアレンジして、この映画のために使いました。**
十一首の短歌は、主人公政夫が、60年前を回想しながら、ラストに民子の墓参りをするまでの、その時どきの感情・感懐を表現するために用いられています。
短歌というものは、面白いですね。叙情詩として五・七・五・七・七の凝縮された形式の中に詠み手の感情を歌うわけですけれど、作歌(作る時)の動機や事情など、余分なものがそぎ落とされて抽象的になっているだけに、主人公政夫が60年後に自分の感情を詠むものとして脚色に用いることが可能なんですね。
ところで、歌を詠むという行為は、自分の感情を対象化することなしにはできない、という事に注意していただきたいんです。
“対象化”という難しい言葉を使いましたが、自分の感情を、いちど突き放してみるということです。ドラマのなかで、政夫が恋文を書くシーンがありましたけれども、ああいう風に自分の思いを綿々と綴るというのと、歌を詠むというのとは、感情の働き方がちょっと違う。短歌として詩の形式にまとめるには、自分の感情を突き放してみること=対象化が必要です。
木下恵介は、そういう歌を詠むときの心の働きを、政夫が60年の時を隔てての回想に巧に利用しています。
老いた政夫は、歌を詠むことによって、幼い日のなつかしい痛切な感情を呼び起こしているんですが、同時に、幼い日の自分を突き放して見てもいる。このドラマに見入る私たち観客も、一方で主人公の回想に深い共感をもって誘われながら、もう一方で、このドラマを突き放して観るように促されます。
私は、また、回想シーンにつけられた卵形フレームも、そういう効果を促していると思うんです。卵形のフレームは、幼い日の恋の記憶のいとおしさを、切ないまでの叙情性で、やわらかく包んでいます。が、同時に60年の歳月が現在と隔たっていることを、どこかで意識させるように働いています。
一方でドラマの世界に私たち観客の共感を誘いながら、もう一方でドラマの世界を対象化して観るように促す。もうひとつ難しい言葉を使わせていただくと二律背反的な効果を狙っています。
そういう一筋縄ではいかない映像を、木下恵介は作ろうとしています。ただの叙情的な“泣かせる映画”ではありません。
引き裂かれた恋
民子と政夫の年齢ですが、ドラマの中では十七と十五と言っています。けれども、これは昔の古い年齢の数えかた(数え年)で、いまの満年齢で数えれば、十五歳と十三歳です。
初恋ですね。従姉弟どうしでごく幼い頃から仲がよかったふたりですから、年頃になって恋に発展するのは、ごく自然ななりゆきだった。
けれども、そんなふたりが、周囲の大人たちや世間から見ると妬ましい。民子が政夫より二つ年上だということも物笑いの種になる。
という歌が詠まれますが、イヤなものですね。
政夫の母は、一家の刀自・あるじとして、初めのうちはふたりを庇護する役割を果たしています。「男も女も、十五六を過ぎればもう子供じゃない。お前ら二人ともあんまり仲が良すぎるから、人がかれこれ言うんじゃ」とふたりを諭しながらも、裏の畑へナスビを採りに行かせたり、山の畑へ行かせたりするわけです。
政夫は、秋の農繁期が終わると、村を出て中学に上がらなければならない。
秋の祭礼の前日に、村から遠い山の畑まで綿摘みに行くふたりには、ふたりの仲も今日で終わりかということが、なんとなく判っています。
野菊の花とりんどうの花にお互いを例え合うやりとりは、素朴で純粋で、微笑ましいくらい美しいですね。
けれども、遅くなって、すっかり夜になってしまってから家に帰ると、ふたりだけで山の畑へ行かせたことが、家族のあいだで大問題になっていた。政夫は予定を早めて、村祭が終わるとすぐ中学校へ行かされることになる。それほどに、世間の目と口はうるさい。
その“世間の目”ですが、村祭で講釈師が『八百屋お七』を語っていますね。その絵入り講釈を見物している村人の目でもあります。
なにげない挿入カットのようですけれど、これ、考えてみると興味深いんです。『八百屋お七』というのは、江戸時代に恋人の庄之助に会いたいがために放火した罪で、十六歳で火あぶりの刑にかけられたと謂われる八百屋の娘お七のことですが、西鶴の『好色五人女』で描かれたり、浄瑠璃や歌舞伎にもなりました。
火付け・放火はもちろん大罪ですけれども、自由な恋愛が許されなかった時代のことです。お七のような女性に対する共感がなければ、芝居や語り物の演目にはならないですよね。
一方でお七に共感を寄せながら、目の前で民子と政夫が仲睦まじくしていると妬ましく思ったりする。庶民感情というものは、しばしば、そういう矛盾を抱えていたりするものです。
祭礼の日ともなると、旧家は忙しかった。村人を家に招いて御馳走をふるまう。そんな中で政夫と民子は、もう言葉を交わすこともできない。別れの日は迫る。政夫は思い余って民子に恋文を書きます。民子は忙しく立ち働きながら、心はここにない。その情景に、短歌が二首詠まれる。
この二首は、字幕なしで、老いた政夫の声で詠まれるだけです。このシーン以降は、字幕を消して歌が詠まれます。
なぜ、字幕を消すのか。字幕と声で表現すると、想いが強く出過ぎます。民子と政夫の恋は、もはや世の中に公認されない恋なんです。想いは、ひっそりと心に秘めるしかない。
このあたり、木下恵介の感情表現の描き分けは、繊細さの極みです。
雨の降る、舟着き場の別れのシーンは、ロング・ショットが主ですが、墨絵のように美しく、哀しいですね。
ただ、余計な情緒は引きずりません。政夫の乗った川舟がゆっくり遠ざかりながら霧のなかへ消えると、画面はさっと60年後に移行します。
朽ちかけた橋の上に、老いた政夫が立っている。
「家」の論理、「世間」の口
さて、正月、政夫が帰省してくる直前に、民子を実家に帰してしまうことで、ふたりのあいだは決定的に裂かれてしまいます。
民子を実家に帰してしまうように仕向けたのは、主に嫂です。母親との会話で、「二ツも年下の政夫さんと本気で夫婦になるつもりでいるのかしら… おっ母さんもハッキリ言ってやるといいですわ… 政夫さんの嫁さんになりゃ仰山田畑を分けてもらえるもの。遠回しに言われたくらいじゃ、なかなか諦めやせんわね」とまで言う。母親は一家の刀自として、嫁の口に逆らってまで民子を庇いきれなくなるんです。
嫂は、なぜあそこまで民子に意地悪なのかと思いますけれど、兄夫婦には子供がいませんよね。旧家の長男の嫁で跡取りが産まれないというのは、あの当時、やはり世間の口がうるさかったと思うんです。おそらく、そのことへのコンプレックスが、矛先を民子に向けさせる。
母親も、民子はかわいい姪だけれども、好き合った仲だからといって、政夫と夫婦にさせるつもりはない。政夫には学問を修めさせ、出世させて、今はまだそこまで考えていないかも知れませんけど、それなりの資産のある家の娘と結婚させて…という風に考える。個人の意志より家の論理が優先された時代です。いくら従姉弟どうしでも、民子の家は分家だし、格が違うと、どこかで考えていたはずです。
年の瀬の雪の降る日、母親はお増をあいだにたてて、民子に実家に帰るように言います。「政夫が帰ってくる前に、お前を家に帰すなんて、そんなむごいこと、あたしの本心じゃないからね」と、民子に頭を下げて涙を流すんですが、このシーンの最初に、民子への餞別でしょう。真新しい草履が置かれているのがクロース・アップで挿入されます。皆さん気が付かれましたか?
原作にはない木下恵介の演出ですが、いくら情け深く民子に接しているようでも、母親の行為は、雪の降る日にこの草履を履いて帰れ、と告げているようなものなんです。これは、木下恵介の眼です。ショットのつなぎ方を読むと、そう読める。
個人の意志の芽を摘んでしまうもの
民子の嫁入りのシークェンスも、原作にはない木下恵介の脚色ですが、いろいろ考えさせられます。
桜の咲く頃、民子に縁談が持ちかけられる。
嫌がっている民子を説き伏せるために、政夫の母親が呼ばれます。政夫の母は、「お前がそう強情張るのも、政夫のところへ行きたいからかも知れないけど、そりゃあたしが不承知だからね」と民子に告げ、諦めさせて縁談を成立させる。
ここでも、個人の意志より家の論理、世間の義理が優先されます。ケヤキンさんは財産持ちだし、なかなか望んでも嫁けるところじゃない、お前は幸せ者だ、仲人に立った郵便局長さんへの義理もあるというわけで、民子の姉も、民子の父母も、こんな結構な話はないと思っている。ひとり民子のお祖母さんだけが、民子と政夫の運命に同情的です。
嫁入りを承知させた政夫の母は「民やは、やっぱり良い娘やね。よぉく聞き分けてくれたもんねぇ」と言い、民子にむかって「お前が承知してくれてありがとう」と涙をおさえます。すべては善意からでています。
母親という人は、決して悪い人ではないし、何か底意があって、これまで民子に接してきたわけでは決してありません。民子が死ぬと、「政、民やにあやまっておくれ、あんな酷いことを言ってしまって。あたしが殺したようなもんじゃ」と泣いて政夫に詫びるんですからね。政夫と民子の仲を裂いたことを心から悔いている。それじゃ何をしたのかというと、世間の価値観に沿って、そうしてきただけなんです。
いよいよ輿入れという日の晩、人力車に乗せられた民子が、ふっと顔をあげますね。印象的なシーンです。民子は政夫との仲を決定的に裂かれたうえに、望まない結婚を強いられて、いよいよ輿入れをする。
そのような運命を受け入れながらも、ここで顔をあげるのは、せめてその中で、けなげに“自分の意志”を持とうとしている、ように見えます。
けれども「民子、お嫁さんはうつむいて行きなさい」と諭される。それを言うのは、民子の境遇にもっとも同情を寄せていたお祖母さんなんです。
ここでも、個人の意志の芽を摘むのは、世間なんですね。
民子は顔をあげて何を見ようとしたんでしょうか?
その表情を繰り返し観たんですが、自分の運命を正面から見据えるという表情ではないですね。もっと、遠くを見ている。この世のものを見ているのではない、という感じもします。
だから、民子が死んでしまうのは、世間に殺されてしまうようなものなんです。
ラストでお祖母さんが、「民子が死ぬ時、握りしめていたのは、政夫、お前の手紙とりんどうの花じゃった」と告げると、悲しみの感情が一気に高まります。
が、画面はすぐに60年後に移行します。野菊の花のクロース・アップ。次いで年老いた政夫が民子の墓を訪ねるのが、ラストショットです。
侘しい墓地の画面中央に大きな木があって、その大木が、いかにも60年の歳月を感じさせる。
と最後の一首が詠まれて、この映画は終わりますが、私は、この作品は、お話してきたように、単に明治時代の悲恋物語というんじゃなくて、作品全体の作りに現代への問いかけがあるように思うんです。
そうでなければ、回想の起点をわざわざ1955年の現代に持ってきた意味がない。これは既に過ぎ去ってしまった時代の悲劇なんだろうか、という問いかけですね。1955年から見れば60年前の悲劇。2022年のいまは、製作当時からさらに60年以上経っていますが…。
この頃の木下恵介は、戦争の時代への痛切な反省から、日本の庶民の生き方を問う、庶民の生き方への願いを込めた作品をつぎつぎに発表しています。この『野菊の如き君なりき』も、そうしたテーマの延長線上にある作品です。
いまの10代、20代の若い人たちが、この映画を観たらどう思うでしょうね。好き合ったふたりが何故にこんな風に仲を裂かれなければならないのか、ちょっと理解不能という感想が返ってくるかもしれませんね。それだけ、恋愛とか結婚をめぐる風俗は明治時代とは大きく変わってきています。
しかし、個人が自分の意志を持って生きることは、日本の社会では、いまだって決してやさしいことではないですね。それこそ、社会の因習は、集団への同調圧力やいじめの形で、今の日本の社会にも隠然と残っている。そう考えると決して古くさい映画ではない。恋愛をめぐる風俗こそ60年前、120年前とは大きく変わりましたけれども、いまに響く作品だ、と私は思っています。
人力車に乗せられた民子が、ふっと顔をあげるシーンに、私は、監督木下恵介の願いが込められているように思うんですが、皆さんはどのようにお感じになりましたでしょうか?
追記
私が、木下恵介という作家はすごい映像を撮っているな、と再認識するようになったのは、割合最近のことです。
この映画会で『二十四の瞳』を上映する機会をあたえられたのがきっかけでした。それまでは、ここまで―とは思っていなかった。
大体『二十四の瞳』も『野菊の如き君なりき』も、世間一般には、叙情的美しさで、とにかく「観客の涙を誘う映画」だ、と思われている。なかには「お涙頂戴」だなんて悪口を言う人もいるくらい、泣かせる映画ということになっています。私も、ごく若い頃は、なんとなく、そんな意見に流されて観ていました。
ところが、ある時『二十四の瞳』を何度目か(2度目か3度目)観なおした時、ラストシーンに何故雨が降るんだ?と引っかかった。
戦争が終わり、大石先生の教え子たちには悲劇もあり、いろいろあったけれども、先生はふたたび岬の分校に通うようになって、自転車で行く。そのラストシーンで雨が降っている。結構激しい雨です。
これは、「戦争が終わって平和な時代がやっと到来した。けれども、この道は決して平坦ではないよ。」、という作者からのメッセージではないか、と。
怠けていて、そんな風に引っかかったまま、次に本格的に観なおすまで20年ぐらい経っているんですが、『二十四の瞳』全編のなかで、5箇所雨の降るシーンがある。しかも、大石先生や教え子たちが、時代状況と深刻な葛藤を抱えているシーンで雨が降っている。
そんなことから、『二十四の瞳』の一見叙情的な映像の内に秘められた、木下恵介の骨太な構想に改めて眼を開かされたということがありました。
今回の『野菊の如き君なりき』も、改めて観なおすまで、叙情性の内に、ここまで鋭いメッセージを秘めた、凝った作りの映像になっているとは、思っていなかった。
やはり“古典”は、折にふれて何度も観なおすべきものですね。若い頃は見えなかったものが、年齢を重ねると見えてくるということもあるようです。