『ミツバチのささやき』 メンタルクリニックの映画館
『ミツバチのささやき』
(ビクトル・エリセ監督、1973年)
【前口上】
今日は、1973年のスペイン映画、ビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』をご覧いただきます。
日本で公開されたのは、初公開から10年以上遅れて1985年だったのですが、その時、現実と幻想がないまぜになったようなみずみずしい映像とともに、長く不毛だったスペイン映画に新しい世代の映画が誕生していたんだ、とかなり話題になりました。
幼い少女を主人公にしていますが、一度観るとちょっと忘れがたい気持ちにさせられる、子供が見ても印象が強く心に刻まれる、詩的な魅力をもった作品です。この映画会に参加されている方の中にも、この作品をリクエストした方がいらっしゃいます。
ですが、いま「子供にも伝わるものがある」と申しましたけれども、この映画、大人向きにきちんと解説を加えようと思うと、決して判りやすい作品ではありません。あらかじめ白状してしまいますと、私、この作品を6回は観ていて、今回はノートも取ったんですが、いまだに作者の表現の意図がはっきり掴めない箇所がいくつもあります。
が、判らないなりにこちらに伝わってくるものはあるので、上映後、例によって少し余計なお喋りをいたしますが、いつも申し上げていることですけれど、私の話なんぞアテにしないで、“自分の眼で感じる”ことを大切にご覧下さい。
97分の作品です。まずはごゆっくりご鑑賞下さい。
【上映後】
『ミツバチのささやき』をご覧いただきました。如何でしたか?
この映画、もし自分が子供時代に、もちろん何の予備知識もなしに観たとしても、きっと不思議な魅力に引き込まれただろうと思います。
冒頭の、村に巡回映画がやってくるシーンなど、ちょっとワクワクさせますよね。ラストは、現実と幻想がないまぜになったような不思議な幕切れです。が、これが悲しい物語だということは、おそらく子供にも充分伝わる。そういう魅力をもった映像です。
上映前に、この映画は一度観ると、ちょっと“忘れがたい気持ち”にさせられると言いました。その一方で、「決して判りやすい映画ではない」とも言いました。
スペイン現代史の重い現実が、物語にも、この映画の製作にも、背景として横たわっているからです。
スペインでは、1936年から1939年まで続いた内戦(スペイン戦争)の後、フランコ独裁政権によるファシズムの支配が、1975年のフランコの死まで続きました。
映画の冒頭で、「1940頃のできごと」と字幕が出てきますが、1940年は内戦が終結した翌年にあたります。
皆さんは、1940年と聞いて世界の情勢のイメージがパッと浮かびますか?これまで、この映画会でとりあげた作品に引っかければ―
1940年は、チャップリンの『独裁者』が公開された年です(日本の公開は1960年)。ヨーロッパでは、前年の9月にナチ・ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦が既に始まっています。この年の6月14日にはドイツ軍がパリに無血入城する。9月にはロンドンが猛烈な空襲に見舞われるようになります。『英国王のスピーチ』のジョージ6世王が、 “War time speech”で国民を勇気づけています。
同じ9月に日独伊三国同盟の締結。『二十四の瞳』のなかで、日本の小豆島の風景は、「海の色も 山の姿も 昨日に続く今日であった」かのように見える。しかし、目を凝らすと、その風景の中を、出征兵士を送る行列が幟を立てて進んでいます。日本の満州侵略(1931年)に起源をもつ日中戦争(1937年~)は既に泥沼化して、日本の軍部は侵略の矛先を次第に東南アジアに向けようとしている。……
(翌 ’41年にナチ・ドイツ軍の対ソ戦の開始(6月)、日本軍の真珠湾攻撃(12月)によって、第2次世界大戦は、ヨーロッパ・ロシア、アジア・太平洋の二つの広大な戦場をもつ真の意味の“世界大戦”に発展します。)
という、イメージ・トレーニングをしておいて、今日は、冒頭のシークェンスを、もう一度繰り返して見たい、と思うんです。
冒頭シークェンスを読む
〔映写:クレジット・タイトル〕
タイトル・バックは、子供の描いたような絵です。
ミツバチの巣箱を持った父親ですね。
これは、母親。…
汽車。…黒猫。…
映画に登場した人物や、印象的な情景やモチーフを描いたものだということが、繰り返し観た時に初めて判りますね。このように映画というものは作り込まれているもので、特に名作はそうですけれど、一度観ればそれでもう判ってしまうようには出来ていないんですよ。
[映写:第1ショット~トラックが村へ入ってゆく]
画面右の家の壁に、5本の矢を束ねた印が掲げられていますね。
これは、ファランヘ党の紋章なんです。フランコ独裁体制を支えるために、唯一許された政党です。ドイツのナチス党やイタリアのファシスタ党と似た地位を占めていました。
内戦後のスペインでは、村々の入り口に、このようなフランコ支配の象徴である紋章が掲げられて、あたりまえの情景になっていました。
[映写:第2ショット~公民館前にトラックが到着~告知文を読む女]
ここまでで、この映画の語り口、映像の文体の基本が現れています。
トラックが走ってきて、村の集落へ入ってゆく。公民館のある広場にトラックが到着して、群がった子供たちと巡回映画の興行主が会話を交わす。村の女が映画会の告知文を読み上げる。第1ショットからここまで、時間は2分20秒ほどですが、たった5ショットで表現しています。必要以上にショットを分割していません。
広場にトラックが入ってくるところなど、カメラと対象との距離のとり方に特徴がありますね。やや俯瞰のカメラ位置をとり、 “場”の全景を捉えようとしている。それでいて傍観者的ではありません。 “ドキュメンタリー的”…と言ってしまうと本当は、あまり正確な言い方ではないのですが。作者は、カメラとともに、目の前にある出来事に “立ち会って” います。
[映写:公民館の会場に観客の村人が次第に集まって、いっぱいになる。照明が消される]
興行主が、「火事をだすなよ。火鉢に注意しろ」と言う。昔の映画フイルムは、燃えやすいセルロイド製で引火しやすかったので、『ニューシネマ・パラダイス』のように上映中火事になることは、しばしば起こりました。
いま、アナとイザベルが椅子を持って入ってきています。しかし、アップで強調することは、ここではしません。
作者がカメラと共に、場に “立ち会っている”(状況に立ち会っている)という感覚。
慣れない方に理解していただくのは難しいのですが、カメラが自由自在に位置を変えて動き回り、ショットを連ねて、映画だけの絵空事の世界を作りあげ、その中に観客を引き込む映像の作り方とは異なった行き方なんです。作者は、対象となる人びとと同じ空気を呼吸し、同じ状況を生きようとしています。私たち観客は、カメラの眼を通して映画の空間に向き合っているわけですが、映画の空間と、現実との間に空気が通い合う…。
以前、この映画会でとりあげたケン・ローチの『ケス』の映像と似たところがあります。
『ケス』も『ミツバチのささやき』も、観終わったとき、虚構の世界の中に浸っていた心地よさが尾を引くというより、何か現実の断片を切り取って目の前に投げ出されたような印象を与えられる。
[映写:『フランケンシュタイン』の上映が始まる。スクリーンの中の司会者の前口上。]
この、映画のなかの映画の前口上。この作品のひねったところで、「製作者と監督からのご注意を申し上げます」と言うのは、『フランケンシュタイン』を見に来た映画のなかの観客に対するエクスキューズだけではなくて、『ミツバチのささやき』を見ている私たち観客に対するエクスキューズでもあるように思えるんですね。
「世にも異常な物語です」と司会者は語りかけます。しかし、精霊の存在を信じてしまったアナにとって、これから実生活で体験するドラマは、まさに…
なんじゃないでしょうか?
映画の世界は、所詮、絵空事なんだからと、とぼけて見せる。けれども、この物語は、本当に、“むかし、むかし、どこか遠い国で起こったお話” なんでしょうか?
もうひとつ、この映画の製作当時、フランコはまだ生きていて、独裁者として権力の座にあった、という事情を考える必要があります。
先程もちょっと指摘しましたが、フランコが死ぬのは1975年のことで、この作品が撮られた2年後になります。
スペインでは、フランコの死後、ようやく体制の改革が始まります。政党・結社の自由が認められたのは、1976年~1977年にかけてです。詳しくは調べきれなかったんですが、'73年にこの映画が撮られた当時、言論は自由ではなく、検閲制度はまだ生きていました。
[映写:蜂の巣箱を世話する父親~手紙を書く母親~母親は手紙を出しに駅へ]
蜂の巣箱の世話をする父親の姿に、母親の語りがオーヴァ・ラップしてゆきます。
母親は、内戦で別れ別れになった大切な人に宛てた手紙を書いています。
スペイン内戦は、人民戦線の共和国政府に対して、フランコ将軍らのファシスト・軍部が武装反乱を起こして始まりました。人民戦線の政府とは、ファシズムに対抗するために、共和主義諸党と社会党、共産党、さらにはアナーキストまでが加わった連合政権でした。
反乱を起こした軍隊に対して、幅広い労働者が民兵を組織して激しく闘ったんですね。
反乱軍の側には、ヒトラーとムッソリーニが半ば公然と軍隊を送って内戦に介入し、共和国の側には、ヨーロッパ諸国やアメリカから困難な旅を経てスペインに渡り、義勇兵として武器を取って闘った多くの労働者や知識人がいました。
“ヨーロッパの内乱”ともいうべき様相を呈したスペイン内戦は、ちょうど戦後のある時期ヴェトナム戦争がそうであったように、現代史の焦点、第2次世界大戦前夜の歴史の焦点でした。
この戦争の展開とともに、スペインは、ファシスト占領地域と、共和国政府の統治がおよぶ地域に二分されます。共和国の確保する地域では、「革命」が進み、農村では大地主の所有地が組合の管理に移されたり、小作人の耕地の所有が認められたりしました。
一方、ファシストの支配する地域では、「中世が復活した」と言われるほどの野蛮と暴力が支配しました。
この映画の舞台になったのは、「カスティーリャ地方のある村」です。カスティーリャは、スペインのほぼ中央部に位置しています。ただ、カスティーリャと一口に言ってもかなり広いんです。
内戦当時の戦局を示した地図を調べると、内戦初期からファシストに占領されて、ずっとそのままであったか、あるいは、一度共和国の統治下で「革命」を経験してから反乱軍に占領されたか、ふたとおりの可能性があります。映画を観る限り、あの村が直接戦闘に巻き込まれたのではなさそうですけれど。
母親の手紙が誰に宛てたものなのか、映画ははっきりと示しません。この手紙が相手に届くかどうかもわからない。
内戦で二分された地域に別れ別れになっていたのなら、戦争中、交通・通信の手段は途絶していたはずです。内戦が終結して、汽車も郵便も再び通うようになった。けれども、「外からの知らせは、わずかで、混乱」しています。汽車だけが、遠いマドリードのような都会の情勢を運んでくる。
母親は、手紙のなかで
と綴っていますね。
この、「人生を本当に感じる力」とは、この作品のキー・ワードだ、と私は思っています。
うち続いた内戦とフランコの勝利による暴力と破壊に倦み疲れ、大人たちは、この力を失ってしまっている。作者は、この力の恢復を、幼いアナに託しているように思えます。そのことについては、これからお話してゆきますが、先ず、皆さんに、ご自分の眼で、このキー・ワードを確認していただきたいと思い、少し長くなりましたが、冒頭シークェンスをもう一度ご覧いただきました。
大人たち
この映画のなかで、内戦を体験した大人たちを代表するのは、幼いアナとイザベルの両親です。
まず、父親について。
父親のフェルナンドの職業は、よく判りません。地主なのか?学者なのか?
ミツバチを養蜂家のように飼育するだけではなくて、書斎のなかに観察用のガラスの巣箱を置き、蜂のために金網で外との通路を作って生態を観察しています。
大地主ではないけれど、興産=一定の財産があって、知識層に属していて―というところかも知れません。
家族が寝静まった深夜、彼がノートに書きつける文章は、単なるミツバチの生態記録ではないようです。
と書いて、書いたばかりの最後の2行を抹消します。消された最後の2行には、観察する者の心の動きが3人称で書かれていて、小説のようでもあります。
フェルナンドは何を書こうとしているのか?ミツバチの生態の神秘と人間社会の営みを重ねようとしているのでしょうか?それは、内戦後のスペイン社会を暗喩で表現しようとするものなのか?
表現意図は空回りし、堂々めぐりします。疲れて机に伏せて眠ってしまうのが、日常になってしまっている。
夜が白々と明けるころ、寝室のベッドにもぐり込む。妻のテレサは、目を覚ましていますが、夫に気付かれないよう、目を閉じたままでいる。
母親のテレサについて言えば、彼女が夫のフェルナンドと夫婦らしい協働をみせる場面が、この映画にはほとんどありません。アナをめぐる事件があったのち、やはり深夜に書斎に閉じこもって眠ってしまっている夫を気遣ってやるシーンぐらいです。
父親が朝早く小旅行に出かけてしまって不在の午後、アナが両親のアルバムをめくって見ているシーンがありますね。
アルバムのページには、おさげ髪の少女時代のテレサが、まだ幼い妹や兄と一緒に写っています。
母親のテレサが書いていた相手に届くかどうか定かでない手紙は、あるいは兄・妹のどちらかに宛てたものかも知れませんね。青春を謳歌しているような娘時代の表情は、内戦の結果、生活から失われてしまったものの大きさを語っているようです。
テレサがフェルナンドに贈ったものらしい自身のポートレートには、色の褪せかけたインクで、「私の愛する人間嫌いさんへ」と書かれています。
このシーンのあいだ、母親は、音の調子の狂った小さなピアノで、何かの曲を片手でポロポロ弾いているのですが、ふと弾くのをやめて部屋を出てゆく。次のショットで、鉄道駅に通じる一本道を自転車で遠ざかってゆく。冒頭シークェンスと同じ構図のショットです。テレサは、また届くあての定かでない手紙を出しに出かけたのでしょうか?映像は暗示するだけです。
テレサとフェルナンドの精神生活は、お互いバラバラになっているように見えます。
子供たちーアナとイザベル
一方、アナやイザベルのような子供たちの生活は、辺鄙な農村のことで、一見あまり内戦の影響を受けていないように見えます。しかし、戦争が終わったから、巡回映画のような娯楽も復活したんでしょうね。アナとイザベルは、ごく仲のよいきょうだいです。
ふたりは『フランケンシュタイン』の映画のなかで殺されてしまう怪物に惹きつけられ魅了されるわけですが、「あの怪物はころされずにまだいきている。精霊として村のはずれにかくれてすんでいる」と幼い子供らしく想像をめぐらせる。
アナとイザベルは、学校の帰り道、怪物=精霊が隠れていると思う村はずれの小屋を見に行きます。丘の上から望まれる荒涼とした風景のなかに小屋が建っているのが小さく見える。小屋に近づくとわかるんですが、地面には畝が掘られていて、小屋の周囲一帯は、ぜんぶ畑なんですね。麦畑でしょう。小屋は使われていない穀物小屋です。
なにか心象風景であるかのように感じた方もいらっしゃるかも知れませんが、干ばつや内戦による耕地の荒廃があって、荒れた畑は、リアルでごく日常的な光景であったようです。
イザベルがおっかなびっくり井戸や穀物小屋のなかを調べるのを、アナは離れて見ている。ふたりの子供の動きを見つめるカメラの距離の取り方が、特徴的ですね。離れてはいるが、子供たちを見守っているかのような距離感です。
画面は一度フェイド・アウトして、ふたたび明るくなると、同じ構図で、今度はアナがひとりで穀物小屋に近づこうとしている。直前のシーンの翌日でしょうか?時間の推移が省略されています。
アナは、井戸のなかへ呼びかけたり、小屋をのぞいたりしますが、人の気配はない。
ところが、井戸の傍らに大きな足跡が残っているのを発見します。あたりを見回しても誰もいないし、風の音しか聞こえない。けれど、精霊はここに住んでいるに違いない、とアナは思う。
姉のイザベルは「怪物はころされずに精霊として生きているのを見た」とアナに教えてやりながら、自分が空想でしゃべったことが本当はあり得ないことなんだと、どこかでわかっている。ところが妹のアナは、幼さのゆえに姉の空想を丸呑みにして信じてしまうんですね。
シーンが前後しますが、学校の授業のシーンで、人体の臓器のはたらきを教えていましたね。 “ドン・ホセ”と名付けられた人体の模型に、生徒が心臓や肺や胃をつけてあげて、次第に人間らしくなる。ちょっと『フランケンシュタイン』の怪物創造を連想させるところがあります。先生が「まだ足りない、とても大切なものがあるわね?」と質問してアナを指名する。
答えは“目”なんですが、 “目”をはたらかせる、 “ものを見る”とはどういうことか?
よく晴れた休日、父親は松林でふたりの娘とキノコ狩りをしながら、毒キノコの見分け方を教えます。「毒キノコかどうか判らないときは採らないこと。見分けるためには、しっかり見なければいけない」と父親は諭します。
“見ること”は、生きてゆくための知恵とつながっていますね。
例えば、真実と嘘を見分けること。権力者の言動に対して、人びとがこの知恵を身につけていないと、現代の社会では簡単に独裁者の跋扈を許してしまいます。
映像にも、見たら死んでしまうわけではないけれども、 “毒キノコ”みたいな映像ってありますよ。チャップリンの『独裁者』は、そういう毒をもった映像に対する私たちへの警鐘でもありました。(このことは、またお話する機会があるでしょう…。脱線しました。)
アナは月の光に導かれて…
さて、アナが月の光に導かれて、まだ夜の明けないうちに、ひとりで精霊に会いに行こうとするまでの心の動きは、繊細にまた丁寧に描かれています。時間が無くなるので詳細ははぶきますが、イザベルのいたずらをアナは本気にとった。精霊が怪物の姿をしてイザベルの前に現れた、と思ったんです。だから本気で怒ったんです。
たき火を飛び越えて遊ぶ(カスティーリャ地方には、あのような火祭りがある)姉たち年上の少女たちの輪に幼い自分は加われないことが、アナの孤独感を深めます。イザベルは精霊がいることを信じないんだろうか?精霊は、夜出歩くのだから、夜のあけないうちに会いに行けば、お友達になれるかも知れない。
アナが、この時、村はずれの小屋まで行ったのか?そこで、共和派の生き残りの兵士が逃げてきたところに偶然出会ったのか?映像は、一見したところあいまいに繋がれています。けれども、つぎにアナが小屋を訪ねる時には、既に兵士がそこにいることを知っているように見えます。
アナは、精霊が自分の目に見えるすがたで現れた、と思っているのかも知れません。
兵士は足首に傷を負っていて、アナは幼いなりに懸命に介抱しようとする。心の交流がそこに生まれます。
けれども、その日の晩のうちに兵士は殺されてしまう…。
翌朝、兵士が殺されてしまったことを、アナはまだ知りません。けれども父親がオルゴール付きの懐中時計を取り出して鳴らして見せたとき、兵士の手に渡っていたはずの時計を何故父親が取り戻したのか?わけがわからず動揺するわけです。
小屋を見に行ったアナは、そこで血の流れた跡を見て、兵士が既に殺されてしまったことを察する。そっと後をつけてきた父親の呼びかけを拒んで、逃げ出してしまう。
アナが父親を拒絶する理由は、お判りですね。
夕暮れになっても、夜になっても、アナの行方はわかりません。
続く夜のシークェンスは、アナの見る夢と現実とが交錯します。
母親のテレサは、大切な手紙を焼き捨てねばならなくなりました。—共和派に同情的で、体制に批判的であると治安警察に疑われたら、逮捕・投獄さらには生命の危険があるからです。
アナは、父親とキノコ狩りをした松林のなかを彷徨っている夢を見ています。水辺のほとりで川面に月の光が反射しています。水の面を見ていると『フランケンシュタイン』の映画と同じように怪物が現れて、水辺のアナと向き合ってひざをつく。怪物の顔は、どこか悲しそうで父親に似ています…。
夜が明ける頃、アナは、…あれは中世に建てられた砦かなにかの廃墟なのでしょうね。荒れた畑のはずれで、捜索していた村人たちに保護されます。アナを診察した医師は、母親のテレサに、
と告げる。
「人生を本当に感じる力」
最後のシークェンス。
アナが数日前に見上げたような夜空です。月は出ているが、雲に隠れている。
書斎の窓にランプの灯りがともります。父親のフェルナンドは、この物語のはじめのように、ミツバチの生態をめぐる思索にもどっています。しかし、書こうとしていることは、先程も指摘したように堂々めぐりなんです。窓をよぎる父親の影が行ったり来たりを繰り返して、彼の思索がほとんど徒労であることを語っているようです。
イザベルは病気のアナとは別々の部屋に寝かされていて、開け放たれた窓から月の光が差す。(窓を開けているのは、春になってきたのでしょうか?)壁には、風にそよぐ木の葉の影。イザベルは影が動くのを見ていますが、やがて眠りに落ちる。
書斎の父親は、例によって机に伏したまま眠ってしまう。妻のテレサがそっと毛布をかけてやり、ノートを閉じてランプを吹き消す。
その頃、アナは目覚めてベッドを降り、月の光に誘われるように、バルコニーの窓を開きます。月の光のなかにアナの後ろ姿が浮かびあがる。アナは、バルコニーに立って精霊に呼びかけます。
空を見上げるアナのクロースアップに、村の近くを汽車が走り抜ける音が、汽笛とともに、かすかに聞こえてきます。
最後のショットは、バルコニーに立つアナの姿ですが、月の光のなかで後ろ姿だったアナが、振り返ってカメラの正面に向き直るんですね。顔は影になっていて見えません。ですが、私にはアナの視線が感じられます。
実際に、演出で、アナはカメラのレンズを見ているのじゃないか?
友だちになった兵士が殺されてしまっても、アナは彼が精霊として生きていると信じています。しかし、心に酷いショックを受けていても、幼いアナにとっては、夢のなかのような体験です。医師が言っていたように、時が経てばすこしずつ忘れてゆく。忘れていった体験は、アナの記憶の底にしまわれてゆくでしょう。
大切なのは「アナは生きてるってことだ」と医師は言いました。
けれども、 “生きている”、あるいは、 “生きる”ってどういう事でしょうか?母親の手紙にあった「人生を本当に感じる力」ということばが、ここで意味をもってくるように思います。
時が経つにつれて忘れられていった体験は、アナの記憶の底にしまわれてゆく。しかし、いつか、その体験が、アナが生きてゆくための糧になる時が、くる。
内戦後の破壊と弾圧の渦中で、大人たち(ドラマの中では、父親と母親に代表されています)は、この力を失ってしまっています。私は、この映画の作者は、「人生を本当に感じる力」の恢復を、幼いアナの成長後に託している、と思うんです。
映画の作中人物がカメラのレンズを見る、という演出は、以前チャップリンの『独裁者』や前々回の『(ベルイマンの)魔笛』の中にもありました。作品世界が、ドラマの虚構の世界を越えて、現実に生活を営んでいる私たちに語りかける。
この映画が、語りかけようとする現実は、さし当って1973年のスペインです。フランコはまだ生きていて、独裁体制が続いています。ドラマで描かれた1940年から33年経っています。成長したアナは、30歳代の後半になっていますね。内戦の記憶を公然と語ることには、当時まだ禁忌がありました。
『ミツバチのささやき』は、内戦の記憶を映画で語ろうとして、そのことに成功した初めての作品です。
この作品が、直接スペインの政治を変えたわけではありません。しかし、独裁者がまだ生きていて、検閲制度も機能している中で、このような作品を撮ること自体、一種のレジスタンスのようなものです。
厳しい努力が、目に見えるところ、また、目に見えない水面下で重ねられていった結果、フランコの死後、スペインの社会はようやく民主化へと向かいます。
暗くてよく判らないという方もいらっしゃるかも知れませんが、ラストのアナの視線は、この映画を観るすべての人に向けられている、と私は思っています。
アナは、もちろん映画のなかの虚構の人物ですが、この映画を愛する人びとにとって、スペイン現代史のなかで象徴的に生きている、と思います。そして、私たちの日々の営みは、積み重なって歴史をつくってゆきます。
アナの人生は、同時代を生きる私たちひとりひとりの人生と、どこかで繋がっているのではないでしょうか?
「人生を本当に感じる力」というフレーズは、今日の会のために何度目かの見直しをしていて気付いたフレーズなんですが、私はこれからも、そのように『ミツバチのささやき』という作品を繰り返し味わってゆきたいと思っています。
皆さんは、どのようにお感じになりましたか?
追記(1)
ラストショットで、アナがカメラを見ている=観客を見ている、と私が言い張るのには、もう少し補足が必要かもしれません。
実は、作品のなかに既に伏線が張ってあるのです。
教室で、少女が詩を朗読するシーンがありました。
古い詩を借りて、内戦後のスペイン民衆の精神状態を語っているようにも聞こえるこのシーンの最後、朗読を終えた少女が、一瞬カメラを見るのです。
(30年ほど前、初めてこの映画を観たときから、引っかかって“保留ポケット”に入れておいたのを思い出しています。)
この詩が、誰によるものなのか、スペイン文学の専門家にお尋ねしたいと思っています。
(これもまた、今回自分の“保留ポケット”にいれたものです。自分が引っかかった、何故だろうと思った表現を“判らない”と切って捨ててしまわないで、大切にしておくことは、大事なことだと思っています。)
追記(2)
この映画を最初に評価して、世に知らしめたのが、スペインの「サンセバスチャン国際映画祭」であった(1973年グランプリ)ことは、興味深いことです。
サンセバスチャンは、スペインの中でも分離独立運動が伝統的に強いバスク州の小都市(フランス国境に近く、避暑地として有名)です。
サンセバスチャンやビルバオを含むバスクの大部分は、スペイン内戦でカタロニアとともに独自の“ナショナリズム”を発揮し、ファシスト軍部に対して頑強に抵抗した歴史をもっています。
追記(3)
アナがめくって見ているアルバムにでてくる父親フェルナンドの若い頃の写真のなかに、スペインの思想家・作家ウナムノ(Migel de Unamuno y Jugo、1864‐1936)と一緒に写っているものがある。
バスク生まれの老思想家は、内戦勃発当時サラマンカ大学総長としてファシスト占領地域にいたが、ある記念式典の演説で反乱軍に対する憤懣をぶちまけたために自宅軟禁となり、絶望のうちに亡くなった。(ヒュー・トマス『スペイン市民戦争 』Ⅱ、P.36~38参照)
「南欧のキルケゴール」と呼ばれたウナムノからフェルナンドが思想的な影響を受けていたとしたら、その死にフェルナンドは深く傷ついただろう。フェルナンドが何を書こうとしていたのか?そのヒントもここにありそうである。
参考文献: