勇気は無いが、信じたい、信じたい、信じたい、信じる
諦めて生きていけ
「諦める」という言葉は「明らめる」という言葉からの派生だと誰かが言っていた。根拠の無い終末論は嫌いだが、過度な希望論も嫌いだ。保育園に通っていた頃、将来の夢を言わされることにどんな意味があるだろう。
夢など無くとも、人はならざるを得ないものになる。
そして、ならざるを得ないものを受け入れるしかない。
微かな希望は重要だ。まだ、救われるかもしれないという望み、自己を突破できるかもしれないという望み。この世界のあらゆるContextやそこに居る自分にどれほど絶望しようと、そういう微かな希望を持ちながら、記憶で担保された「自己」を積み上げ、紡いでいく。
幸せなことも、不幸せなことも、
「不思議で混沌としている世界」の影絵の様だと感じながら
本来の「世界」に帰ろう
人生の「伏線」を回収できるのだろうか
「伏線」という単語の意味は、私が定義するに「過去の出来事・事物を指し、未来において重要な役割を果たすもの」と言えると思う。つまり、「人間万事塞翁が馬」と同じで「人生におけるあらゆる選択」は全て「伏線」と成り得るので、それを受け入れるある種の「覚悟」を決めておく必要はあるだろうと思うのです。「覚悟」なんて大それたもの、後天的にどうやって身につくのでしょうか。私の様なしがない文字書きには、一生かけても無理かもしれません。
言葉でどんなに着飾って自分を強く見せたり、自分の弱さを隠したりしても、結局は「自己の膜」を厚くするだけだ。どんなに言葉を積み上げても無駄なら、一体どうすればいいだろう。
こうして言葉を紡がなければならない程に、私は心をある種「拘束」され、行き場を無くしている。口の奥で「stray sheep」と幾度となく呟いている。
所謂「物書き」や文学家・作家たちは、それをせざるを得なかったのだ。
「承認」という他者に依存したものへのこだわりや、自己を肥大化させるために作品を創ったのではない。
皆、そうしなければならなかった程に追い詰められていたのだ。
自分を救うために、そうするしかなかったのだ。
この感情も、心も、世界のあらゆる出来事も、「全ては伏線だ」と信じて。
この種の闘争・探究は、もう世界では終結しているのかもしれない
こういった「西洋個人主義」との対峙は、もう明治時代に終結したのかもしれない。夏目漱石を読んだのは高校3年生の時だった。当時の恩師に「三四郎から出版された順番に明暗まで読むといい」と教えられ、半年かけてその通りに読んだ。中身はもう詳しくは記憶していない。だが今になって、漱石は個人主義と対峙した末に「則天去私」に到達したと分かる。西洋文化でいうところの「神の概念」に近いところに到達したと。
複雑なことは私は分からないので、私の知らないところで既にこの戦いは終結していると信じたい。私はそのヒントをいつも探しているし、それをいつも考えている。そして、それをこの身体に刻み込みたいと心底願っている。
自分・誰か・何かを崇拝するのは間違っている
私たちは、大きな世界の一部
全てと繋がっている
私たちは前提が間違ってたんだ
ここまで根強くインストールされてしまったこの「前提」を、私たちは改訂し得るだろうか。できると、信じたい。
協調性の無い者は死ねというのでしょうか
良書を見つけた。情操感情を誘う様な良書だ。
真に賢い人間は人懐っこく、協調的であり、それが故に集団として密に協力することによってホモ・サピエンスは他の類似した種よりも賢明に生き延びることが出来ている、と言っている。我々の目が白黒で目線が追いやすいのも、眉がよく動いて表情が豊かであるのも、そうした過程の上での「進化」だ、と。
あるべき優れた者の姿は「謙虚な姿勢」だ。
そうでない者はいずれ「自己」を肥大化させ高慢・無慈悲になり、争いの種になって集団を内側から滅ぼすだろう。
かつての我々の祖先は、それを排除するシステムを持っていた。
述べていることは、とても美しい。我々は元来「善」であった可能性を強くみせてくれるし、そうだと私も信じたい。信じさせる様な内容が書かれている。
頭で理解できるし、非常に美しいと思う反面、「これが私にできるのだろうか」と思う。この点において、私は全く自信が無い。それどころか恐怖すら感じる。「周りを気にするな。きっと応えてくれる」「少しの勇気があれば、乗り越えられる」なんてありきたりな文句は私をこれっぽっちも救わない。怖いものは怖い。勇気を出して成功体験を増やすような経験を、もっと小さい時から積んでおけばよかったと思うが、私は幼少期からこれが怖かった。
何が私をこれほどまでに怯えさせたのか。
その答えをずっと探した後、私は幼少期の親との関係性の悪さが原因ではないかと考えついたのだが、これは「盛大な言い訳」と結論づけられている。
これが、私の心が行き場をなくしている原因だ。
恋人は居るが、友情を感じ得るような友人は居ない。
私は、確かに協調性は無い。
頭でどんなに理解しても、身体は「世界」に対して恐怖と拒否反応を示す。そうして、外(世界)の扉が閉ざされた私の心は、「自己」という内なるものに向かうしかなくなった。
人と対峙しても、言葉が出てこない。何か喋るべきタイミングだろうと思うが、言葉が出てこない。気の利いた冗談を言っていいのかダメなのか、その判別をつけるような空気感や関係性が全く分からない。取り敢えず、人を傷つけるのはいかんと思うので黙っていると、返ってそれが失礼になったり相手に気を使わせたりする。結局、直接的に迷惑をかけている。
協調的なもの以外で他者貢献しようと思っても、世界は「協調的でないと寂しく死ぬことになるぞ」と突きつけてくる。しかし、分かってほしい。私は世界とも他人とも、自分自身とも対峙したくはないのだ。本当は心から、「世界は暗い側面もあるが、明るく美しい側面はそれよりはるかに大きく存在している」と信じたい。
私たちの祖先は世界主義者だったはず
私たちは「世界」と手を取り合っていたはず
自由・平等・愛は死んだ
少なくとも私の中から
だが、私は信じる
この身体は「世界」とひとつだと
この顔が描かれた風船が弾ければ
私たちはひとつになれるでしょうか
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