協調性がない、って言わないで。【ASDでも人と手をつないでいたい】
2学期制を取る娘たち二人の学校では、昨日は1学期の終業式。
「通信簿もらうから、ちょっとふくざつな気持ち」とは小4の次女。「通信簿もらった後のみんなのリアクションがすごいんだよね」と、中2の長女。それぞれの思いをダイレクトだったりインダイレクトだったりで伝えて、登校していった。
この通信簿。わが身を振り返ると、典型的に自分しか見えてない子どもだった、と今になって分かってきている。座学の教科の評定は良い。けれども、態度面で「よくできた」がつくことはあんまりなかった。
高学年の、たしか5年生の頃だった。通信簿を一通り返した後、担任の先生が言った。「責任感の欄に“よくできた”がある人は、とても大切なことができています。教科のよくできました、よりも大切かもしれません。自分でも誇りに思って下さい」みたいな内容だった。
(責任感…「できた」だ。責任感って何だろう?何を頑張れば、責任感が良くできることになるんだろう?)
「先生の話をよく聞いて、それを守ること」は、祖父がよくよく教えてくれた。「授業に積極的に参加して、手を挙げたりすることは良いことだ」と、小4の担任だった大好きな先生が教えてくれて、それを以降、忠実に守っていた。「1日1個の漢字を覚えていけば、一年で365個も覚えられるんですよ」と、積み重ねの大切さを教えてくれたのも、その先生だ。
……けれども、「責任感をもつのですよ」と教わったことは、それまでなかった。そもそも、どんな場面で、どうもったらいいものなのか、さっぱりわからなかった。それがいいことだ、と明言して教えてもらわずに、どうしてそれが大事だと分かるのだろう?
ティーンエイジャーに片足をかけたような年ごろのわたしの心には、そんなはてなマークが群れをなしてもやもやしたまま、その場面の記憶は途切れている。
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あれから30年近く経った。その間、社会人生活でことごとくつまづきながらも生きてきた。その理由を解りたくてここ5年ほどで発達障害を学び、神経の多様性を公私で目の当たりにする中で、自分の特性を多少なりとも客観的に理解できるようになってきた。
その一つとして、自分にはASD(自閉スペクトラム)特性があり、集団がもつ暗黙の了解のようなものが、多くの人よりも見えにくいようだ、ということが分かってきた。あいまいなことが苦手で、その代わり言語化されたものに絶大な信頼感をもつ。
だから、良くも悪くも、言われたことに自分を拘束させる。それが程よければ真面目さとなり、度が過ぎるとこだわりとなり、自分でもそこに(やり過ぎと分かっていても)余計な労力をつぎ込み、苦しむこともある。
押韻などの言葉遊びは大好きだけれど、集団で取り交わされる冗談はよく分からないことも多い。
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特別支援学校で働いている。職業上、協調性が求められる場面が多い。チームでの仕事の全体像を捉えて、手の必要なところを見極めてサッと入る。ほぼティームティーチングで行われる授業。ベテランの先生を見ていると、T2は、子どもの学びが促されるように、T1の発問等にアドリブで絶妙な合いの手を入れる。……すごいな、わたしもできたらいいな……!
特支は体育会系の先生も多く、職員室でパッパッと球の速い会話が取り交わされることがある。事務の時間が限られる中、手短な伝達も必要だ。必死に追いつこうとする。端的に、効率良く、やろうとする。必死に、わたしはどう動いたらいいのか、協調性を発揮できるのか、想いと頭をめぐらせている。でも、なかなかそれが見えず、内心、心許ない。
特支に来て半年とちょっと、経験の浅さもあるだろう。
ただ、他の人が「あの子は協調性がないんだよな」のような発言をすると、自分に重ねてちょっと心が痛くなる。
自分は協調性をもちたいのだけれど、どう協力していいか分からない。なぜか、そういった雰囲気や全体を読むのが、とても難しいのだ。そして、そういう人は私だけではないはずだ。
何か、依頼する時には、その全体像を、主語を省かずにその全体像と、その理由を説明して欲しいと思う。部分をつきつめて考えるのは得意なのだけれど、部分だけ渡されて全体像と結び付けるのに、なぜか時間がかかったり結びつかなかったりするから。
結びつくのが当然で、「え?なんでわかんないの?」とつきつけないでほしい。分からないように作られている人もいるのだから。あなたの常識とわたしの常識は、そういう意味で違うのだから、多数派だからといって、それがさも当然のように喉元につきつけないで。ウッとなるから。委縮するから。
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他方、福音は、同じ自閉傾向のある子の気持ちが、グレーの境界にいて、何となく分かること。少なくとも、限りなくホワイトに近い大人よりは分かる。隅に追いやられたり、追い詰められて上から見下されてどうしようもない気持ち。異邦人感。美しいリズムや規則性のある光や色のパターンに、潜り込んで還ってしまいたいような、途方もない哀愁と憧憬。それでも、手を伸ばしたくなる、この人間界に産まれ出でてしまったちぐはぐさ。
今は、場の求めるとおりに協調したいと思っているから、わたしのつかえる部分である言語の力を総動員しながら、協調性を醸し出すことに成功している。そう信じたいし、できていないところは多いと思うけれど、少なくともその誠意のようなものは伝わっていてほしい。
責任感を醸し出すことの叶わなかった小学校高学年の私。……自分のことばかりにかまけて、かわいくなかっただろうなぁ…減らず口だけは立つし。
30年近く経ってそう振り返れるようになった、私のゆっくりな社会性の発達に、よしよしして、今日の記事を閉じたい。
……そういえば、「人に注意されたときに口答えする傾向があるから、素直に受け止められるようになんなさい」って、おぢーちゃんに注意されたな。
いろいろ思い出したり、感じるところのある帰省の週末、きのう新幹線で書いた続きの記事でした。
子どもたちの通信簿は、明日までお預け。
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