見出し画像

ゆるめてカヌレ。《甘いものは喜びの分かち合いでありたい》

「わたしなんて甘いものを食べるに値しないから」
そう言ったのは、映画『花嫁はどこへ?』に出てくる屋台の女店主、マンジュ叔母さんだ。

値しない、ってどういうことだ?――映画解説やパンフレットを読むと、インドでは甘いものを祝い事の時に分け合って食べる習慣があり、女手一人で店を切り盛りして生きてきて、苦楽で言えば苦ばかりの自分の人生には、甘いものを食べて祝うような気持ちになれない、ということらしかった。

哀しい気持ちやもの寂しいときに、甘いものを欲してしまう自分がいる。口寂しい、っていう表現が言い得て妙というか、幸せを感じる頻度が辛さよりもまさっていたりして現実に満足している時には、食べなくても心も満足、なのだ。

人との温かい心の交流、が日常ベースであること。反対に、心が削られることは少ないこと。両者のバランスが、どちらかといえばちゃんと交流できて安心している方に傾いていると、心が比較的安定するようだ。オキシトシンによる支配。わたしたちは物質レベルで、生存のため必死に心身を動かしている。

心削られているということは、生存本能的にはこの身が侵害されそうだ、危険だ、と察知して緊張している状態だ、と言い換えることができる。この危険察知モードだと、学問を深めたり芸をたしなんだり、と言った領域のことにまで、気が回らない。だって、それどころではない。生命が他の生物なり生存環境なりに脅かされる、と感じているのだもの。深いところで。

マズローの欲求で言うと、低層の段階が満たされないと高次の欲求に行かない、ということだろう。日常の例で行くと、一番身近で毎日のベースとなるはずの家族で危険信号を感じていると、もう一層外側の集団である地域社会や職場といった人間関係の中でのパフォーマンスが落ちるのは理解に難くない。生存に関わる欲求は、社会的欲求を下支えする。「衣食足りて礼節を知る」のような故事も、同じことを言っている。

さて、何かのタスクを成功させたときに出るドーパミンという物質は、食べることによっても放出される、と聞いたことがある。食べることで「快」を感じるようにしておくことで、身体は己を保持するために欠かせないエネルギー源をその主が確保するようにしている。遺伝子レベルの、涙ぐましい生存プログラム。

タスクの成功には取り組む努力や時間的な投資が必要な一方で、食べ物が豊富にある現代日本では、「食べること」は比較的簡単に手が届くところにある人が多い。そこでこの「ドーパミン放出」⇒「快を感じる」という報酬系は、ちょっとバランスを崩すと「食べること」に乗っ取られてしまう。

「タスクの成功」が必ずしも社会的なタスクとは限らないが、成功、と言ったときに第三者が見ても「成功である」と分かるものが想定されるような気がする。

少なくとも私の「寂しいと食べる」に関して言えば、食べることで何か「人とのつながり」の疑似体験を、物質レベルでしているのかもしれない。

――けれども、どうして甘いものなのだろうか?
喜びの多い人生、に焦がれてやまない、その疑似体験でもあるのかもしれない。

インド映画では、そういう「喜び」の象徴されるお祝い事のシーンに、甘いものを「食べさせ合う」ところが出てくる。――そうなのだ、「喜び」は一人ではなく、分かち合うもの。

五感を別々にしか感じ取れないin-divide-able, 不可分の単位である個人だからこそ、味覚の喜びをそういうふうに共有することで、喜びも二倍三倍になるんだろうな。

ああ、人生のお祝い、したいなぁ……!



蛇足だが、タイトルに書いてしまったことに気づいたので。

先日美容室に行った時のこと。徳の深いその美容師さんが、さんざん日常のしんどい場面を吸い上げて聞いてくれた上で、うーん、頭皮が固くなってるね~、ストレスかなー、これでも食べて緩んどきなー!と、帰り際くれたのが、カヌレだったのでした。

こんもりとこげ茶色のそのカヌレは、はちきれそうな喜びとは反対側の、涙と緩みをもたらしてくれた。

そういう甘いもの、もあるよね。


いいなと思ったら応援しよう!

すかーれっと/Scarlett
投げ銭は、翻訳の糧になります。