ADHDおかーさんは居場所を求めて
一人の時間は、わたしにとってcrucial だ。致命的に必須。
一人の、静かな時間で、わたしは自分の感性とつながり、着想を得、それを抽象概念や言語で操作する。
そしてその種が、詩作となりnoteとなり翻訳の的を得た言葉になったり、英語の先生としては授業のイントロになったり、個人レッスンのダイアログになったりする。
一人の、静かな時間と空間を、わたしはこよなく愛している。
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子どもができて「おかーさん」になってから、わたしのそれは悉く侵攻と侵略にさらされることになった。
母がそうだったからという無意識の理由で、私はわたしの空間と時間を蹂躙されるままにした。
「おかーさん」5年目で、二人目の「おかーさん」となってしばらくして、わたしは切れてしまった。
時間と空間の他にも、朝食にご飯とみそ汁を食べる食生活や、ぬか漬けや畑作業や花の手入れを好んでいた(よく枯らしたけど)楽しみも、それ以上に子どもに手がかかるから、放棄していた。というか、フルで働きに出てたし、手が回らなかったのだ。
それはちょうど5年前のことだった。
それから、「おかーさん」でないわたしの復権活動は、ずっと続いている。
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しかし。
休みになると、今でもたちまちわたしは「おかーさん」のポジションを取ってしまう。すると行き詰まる心とからだ。なんて正直、わたしのからだ!
そうなのだ。5月の外出自粛中に耐えきれなくなって、一部屋開けて自分のものを運び込んだ。そこが、エアコンが子ども部屋になく、その部屋にはあるという事情で、子ども達の寝場所になってしまった。
仕方なく夫との寝室に戻ると、エアコンの温度戦争が待ち受けている。先に寝てしまうわたしは25度に設定していた温度がいつの間にか20度になっていて、冷えて目を覚ます(本当は16度にしたい人なので、これでも折衷案らしい)。
階下に降りると、早起きの娘たち、リビングでは既にカチャカチャしたテレビの音…仕方なくキッチンへ行く。水切りかごの食器たちが、戻されるのを待っている。顔を洗いに、洗面所へ行く。脱衣かごの衣類が、今日は天気よ、さあ洗濯よ、と不敵な笑みで話しかけてくる。
わたしは、一体、この家の中で、どこに行ったら安寧を得られるんだろう?
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静けさが、欲しい、だけなのだ。
時々、わたしは夫も子どもも置いて、どこか森の中に越した方がいいんじゃないか、って真剣に思う。他でもないわたしの精神の健康のために。本を静かに読んで、思想して、書く。草木の手入れをして、その季節の移ろいを愛でる。ソローもサートンもそんなこと、してたじゃないか。
そんなことを想いながら喫茶店に隠遁する令和二年の盆
*下記の記事で書いている子育てシェアのコミュニティ、なんか世の中は逆方向に行っているようだなぁ…ああ、自分もそれに乗っちゃってるんだなぁ…血縁の父親に血縁の母親、その二人だけで育児、って、まぢキツイと思うんだけどな。
子育てシェア、コミューンみたいなのを作るしか、ないんだろーか
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