フレンチブルドックと防衛心《自閉傾向と感性とのトレードオフについて》
noter さんの記事を読んでいて、フレンチブルドックの写真が目に飛び込んでくる。――フレンチブル……あ、昨日の誰かとの会話に、出てきたぞ。ええと……誰との会話だっけ?――さっぱり思い出せない。
表層運転をしていたぞ、と振り返る。目の前のことに対応することが精いっぱいで、何か人と会話することになれば、自動的なレパートリーで発言を返すけれど、返すことに脳内RAMはほぼ割かれている。「記憶を蓄積する」伝達物質やらを放出するエネルギーが、残っていない。
結果、何か話したのに、その内容をよく覚えていなかったり、うまく整理できてないことが多々ある。混沌。間欠。忘却というか、そもそも格納されていない記憶。
仕事上で何か複雑な事柄、人の動静とか、絶妙な言質とか、そういうダイナミックに瞬間瞬間で変わっていく局面を把握して、脳内で整理して、必要なポジションの人に逐次報告、、、なんていうのは、申し訳ないぐらいにできない。脳内に?マーク、ああ、周りの人もそれを察して自分は蚊帳の外だな…という感じ、追いつこうとしているのだけれど。――それは私を悲しくさせる。
そういうケースがこのところ続いていて、なかなかにストレスになっているのを感じている。わかりたくてもわかれないこの感じ。一体定型発達の人の頭の中はどうなっているのだろう?経験と慣れもあるだろう。
この、「できない」に自ら敢えて居着くのは素敵じゃない。でも、それが発達特性によるものであるのなら、それはどこかで「難しい」の線を引いて、自分を赦してやりたい。やらないと、ちょっと、自分が駄目な人間であるような気ばっかりしてきて、精神的によろしくない。ああ現代。
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『自閉症だったわたしへ』著者のドナ・ウィリアムズも、「自動運転」に言及していた。パターン化されたコミュニケーションならば、覚えたレパートリーの範囲で自分を切り崩すことなくやれる。相手で言えば、一対一なら変化の激しさで言えば大分下がるから、比較的大丈夫。二人以上の集団相手だと、不確定要素が延々とラリーされるような状況に、敢えて飛び込んだりしたくない。球、当たったら痛そうだし、読めない球筋も多い。
同時に、自動運転はもったいない、と思う。
ドナの言うところの「防衛心」、つまり「社会」の要請に応えんがための「社会的な」言動をせんがために、そいつに神経を使い、その分自分は閉じているのだから。もっと言えば、自分の感性のシャッターを、閉めている。本当は人一倍みずみずしい感受性をもってものごとを受け止められ、世界とほんとうの心で相互作用したいと願っているのに、それをすると危険だ、と感じるように、少なくとも私が日中を送っている職場では、自分は感じてしまっている。
娘達にも、そういうところがあるようだ。
自分の世代でちょっとでも、楽にしていきたいのだけれどな。
金曜まで来たぞ。
今日も乗り切ろう。
感性のシャッターから、わたしの鼻先を少しでものぞかせられますように。