見出し画像

「ばかにしないでよ」#2/3 先生は味方でいて欲しいし、そうありたいんだ。


(#3/1の続きです)

体の部分には、感情が蓄えられているという。

痛みとして蓄積されたわたしの感情とは何だった?

わたしのからだに問い合わせる

わたしの在り方に合ったレメディは私を折に触れて深く潜らせる。本当に、さりげない何でもないお風呂のドアを開けたとかそういう瞬間に、それはくっと入り込んできた

* * * *

事故が「起こった」小6の12月、わたしは小3からつけていた眼鏡を確か外していた。今ほど近視が進んでいなかったから、0.3ぐらいは見えていたはずで、それが事故の直接の原因という訳ではない。問題は、何が私を、眼鏡なしの見えにくさを棚上げしてもそれを外させたか、だ。

それは北風と太陽で言えば、北風だったと思う。象徴的に。

* 

被害者の視点では書きたくないんだ。でも小6の自分のまだ幼い心を想うと、その単純な女の子は可哀そうで。ただ、そうするのが良いと信じていることを不器用に一心に行う子だったから。子どもなんて誰でもそうかもしれないんだよ。

そうだ、三人称を使おう。それで距離が置けるはず。いや、私は自分の認知で世の中を眺めてこのかた30余年生きてきて、他の認知スタイルがあることをつい数か月前にヘレン・ケラーが「水」という概念を「わかった」ようにようやく「わかり」、理解しようと追いついているさ中の身だ。だから客観的なるものには到底近づけないだろうけれど

* * * *

ちょっと想像してみてほしい。

あなたが小学校で先生をしていたとして、クラスに「空気がよく読めてなさそうで、勉強はプログラムされたように一生懸命で、大勢のノリの中でひたすら自分の集中するべきと信じているもの(勉強)に没頭していて周りのことに拘泥しない、もしくはできない、ような、恐らく、からかい甲斐のある子」がいたら、どうその子を扱いますか?

授業中は問題ない。その子は「お勉強する」ことは善だということを信じていて(だってそのように教えられ、励まされてきたから)、積極的に学習という学校に行っている大前提に取り組むのだから。

問題は、給食や休み時間など「生活指導」と呼ばれる場面だ。小学校では特に、この授業外で先生が関わる部分が多い(学習指導要領でも明文化されているもの)。他の生徒と、そういう変わった彼または彼女との関わりの中に入って、一緒に彼女をばかにしますか?

理解できない「変な人」を理解する術を知らず、多数派の「普通の感覚」を持つ先生は、それとなく、だけど確かにいやらしい言葉の矛先を私に向けた。性に関わることだった。他の生徒と比べられるような言及の仕方だった。コミュニケーション面で未熟なわたしだから気づかないと思って?

わ か る ん だ よ ば か や ろ う


「ばかにしないでよ」




* * * *

授業では誉めてくれていたのに、内心そうして卑下していたなんて。

わたしはよくわからない衝撃を受けて、たぶんそのあと眼鏡を取って残りの小学生生活を過ごした。「マジメナオバタサン」の象徴に思えたから。

いくらどんな教授方法で賞を取ったとしてもあなたの生徒に対する姿勢は最低です。生徒の味方でいてあげることが、あなたを信頼して囲んでいる小さな芽たちをつぶさず育むという一番大事な先生の仕事でしょう?はぐれて弱い生徒にこそ。それを他の子と一緒にあざ笑うなんて。

ふざけんじゃねえ。


(ここまで書いてて電車を二駅乗り過ごした)

言語化するのに22年もかかっちまったじゃねーかべらぼーめぃ

そう、長じた今なら言葉にして戦える。自分を守ってあげられる。私は22年かかりましたが、遅かれ早かれ、大人ならば言語化して突っぱねられることが、子どもは甘んじて全部受け止めてしまう。

(ここまで書いてて折り返した電車をまた乗り過ごしたことに気づき唖然)

コミュニケーションで発達の特性が強い子ならなおさらです。

「よくつかめない」でも「何となく」もしくは人より更に鋭敏に「感じる」

今でこそ発達障害が取りあげられるようになり、知識としての理解はより広がってきていると思う。公立高校講師時代の教員研修でも、昨年履修した教員免許更新の必要単位の中にも発達障害の概論と対応が組み込まれていた。

そうした「異種な他者を知る機会」が22年前の当時に限られていたことは不幸だとしよう。時代が追い付いていなかった。でも、その知を人相手に生かせるかどうかは人間性の業だよ。たとえ知らなくったって、人間性は発揮できる。人間性のない、システムに乗っかってる教師は、子どもに評価を与える立場にいてその力を濫用しているという点で、罪深い。

だからその時の先生には

このクズが

って言ってやりたい。覚えてらっしゃらないと思うけど。

でもねこうして傷口から取り出した結晶こそわたしのLakshya(ヒンディー語で生きる目的)だって先人は言っている。だからその先生にも感謝しかない(誇張あり。はるちゃんの受け売り。まだそこまで悟れねー でもそこまでいくよ!)

わたしはその昔の自分を救いたかったからずっと教員になりたかった。

はみ出してる子に「それで大丈夫だよ!」って言える存在になりたかった。その術を身に付けるサポートがしたかった。その子が阻害されずトマトの木になれる養分であり太陽になりたかった。

でもね、自分自身が「普通に教員をやること」に困難が伴った。人を助けるどころか、人をわかることが、高校教員としてできなかった。必要とされている知識の効果的な教授の技術が途方もなくつたなかった。人より10倍時間がかかるのに子育てや家庭のことを諦めきれずに中途半端に手を出してまとまらないようなこの感じ。文字通り清水の舞台から飛び降りる気持ちで教員の道へ入って3年、とても苦しかったんだ。

その糸口が、ちょっとずつ見えてきてるんだ。いや、糸口をたどるエネルギーをやっと取り戻せていて、たどる覚悟ができた。(これにはインド映画の功績が大きいがそれは後日)

先生は生徒の味方でいて欲しいし、そうありたいんだよ

わたしが出会ってきた先生には忍耐強い先生方にも恵まれてきたからね、そう思えるんだ。

次回はそれも交えて、希望の湧く話を書きます



3/3に続きます。


                                  






投げ銭は、翻訳の糧になります。